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act.8月虹ワルツ<377>

「……っしゅん」 最小限にとどめたつもりのくしゃみは、狭い教会内では嫌と言うほど響いて、オルガンの音色もぴたりと止まってしまった。 まずいと思って顔を上げると、彼はオルガンから手を離しこちらを向いていた。その顔はさっきまでとは打って変わって、ひどく冷たい。 「邪魔してごめんなさい」 演奏を途絶えさせたことで怒らせた、と思った葵はとにかく謝罪を口にする。そしてベンチに置いてあった荷物をかき集め、彼の元へと走った。 話す機会を得たことに変わりはないのだから、今は手早く用を済ませて退散したほうが良い。 「あの、先日はコートと、それから傘、どうもありがとうございました。おかげですごく助かりました」 焦りはしたが、何度も頭の中でシュミレーションしていた甲斐あって、割合スムーズに礼を口にすることが出来た。彼は相変わらず冷たい目線を投げかけてくるが、ともかくここで怯むわけにはいかない。 「これ、お返しします。一応クリーニングには出したんですけど。あと、ほんの気持ちなんですが、これはクッキーで。先輩のお口に合うか分かりませんが、ぜひ召し上がってみてください」 制服のネクタイの色で学年が分かるのはこんな時便利である。二年の証である青いネクタイを締めている彼は葵の一つ年上らしい。だから一般的で失礼にならない“先輩”という呼び方で、名も知らぬ彼を呼ぶことが出来た。 「あ、今渡されても困りますよね。ごめんなさい。えっと、あぁ、ここに置いておきますね」 差し出したコートも傘も、クッキーさえも受け取らずにじっと見据えるだけの彼に、葵はさすがにどうしたらいいのか分からなくなって、それらを近くのベンチに置いておくことにした。 恩人の顔は分かったし、後日改めてもう一度お礼を言いに行けばいい。機嫌の悪そうな彼に無理につきまとっては逆効果だと、葵はそそくさと帰ることを選んだ。 しかし葵が背を向けようとするとようやく彼が口を開いてくれる。 「何の話?」 中性的で美しい容姿が醸し出す雰囲気とは裏腹に、彼の声は低く棘がある。 「一週間ぐらい前に雨が降って、その時……」 「知らない。人違いじゃない?」 彼はきっぱり否定するものの、髪をかきあげた瞬間にあのコートと同じ花の香りがしてくる。葵にはそれが何よりも証拠だった。 でもあの日黙って立ち去り、その後の生徒会の呼びかけにも一切応じないような人だ。感謝されるつもりがないどころか、あの日の事をまるで無かったことと決め込む考えらしい。 この調子ではコートも傘も、受け取ってもらえやしないだろう。葵が強引に置いて行っても、この人はそのままにして帰りそうである。そんな一筋縄ではいかない頑固者のオーラがひしひしと感じられる。 しかし葵とて何も受け取ってもらえないままで帰るわけにはいかない。真っ向からぶつかるときっぱりと否定されるだけだと分かったから、少し違う方向から彼と打ち解けてみようと考えた。

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