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act.8月虹ワルツ<378>
「今の曲、なんて名前ですか?すごく綺麗な曲ですね」
葵がくしゃみをしてしまう前まで彼が弾いていた曲は、あの日葵が夢の中で聴いたメロディと同じだった。匂いだけでなく、この曲も彼があの日自分を助けてくれた人物だという証拠のようなものだ。
柔らかくて、優しくて、それでいてどこか切なくなる旋律を、葵はあの日からずっと口ずさむほど気に入っていた。
でも彼はこの切り口の会話もお気に召さなかったようだ。変わらずきつい目で葵を見据える。
「綺麗な曲って。何とも面白みのない世辞だね。もっとマシなこと言えないの」
「マシなこと、ですか……えっと、何だろう……」
「ただの嫌味だから、別に考えなくていいよ。この曲の名前聞いてくるぐらいだから、どうせこの手の事に関しての知識なんてないんでしょ」
「有名な曲なんですか?」
彼がそういう物言いをするのだから、音楽を嗜んでいる人たちには知れた曲なのだろう。そう思って問い返せば、彼はイエスともノーとも取れる曖昧で意地の悪い表情を浮かべた。答えてくれる気はないようだ。
これはもう次の話題に移るしかない。そう思った葵は、懸命に彼が乗り気になってくれそうな題材を探したが、どうしたって浮かばなかった。そもそも演奏の邪魔をしてしまった葵は、彼にとっては本当にただの邪魔でしかなく、さっさと立ち去るのが筋なのだろう。
「で、用はそれだけ?」
彼からもとうとう催促が来てしまった。葵は仕方なく、ベンチに一旦は広げた荷物をかき集めて胸に抱いた。
「すみません、お邪魔しました。失礼します」
「はい、さようなら」
彼からの別れの挨拶が何とも刺々しい。
あの日の恩人と再会した時のために何度も繰り返したシミュレーションではこんな筈ではなかったのに。
結局風邪は引いてしまったけれど、あの時生徒会の中でちっとも役に立てていない事実に落ち込んでいた自分にとって、温かなコートと傘の気遣いが染みるほど嬉しかったのだと伝えたかった。
でもそれは葵の独りよがりの思いで、名乗らずに立ち去った彼の都合をまるっきり無視していたのかもしれない。強い拒絶はきっとそのせいだろう。
だから一度は大人しく教会の扉へと足を向けようとした。でも、お礼を言う練習に何度も付き合ってくれた冬耶と、毎日新しいクッキーを作り替え、葵の背中を押してくれた遥の顔が浮かんでくる。
──あと一度だけ、頑張ってみよう。
葵はそう思い立つと、今来た道を戻る為に身を翻した。当然いきなり振り返った葵に対して彼は驚いたようだったが、葵も少なからず驚かされた。
振り向いた時、彼はオルガンに頬杖をついて葵を見送っていた。その表情が夢で見たマリア様そのもののように柔らかだったのだ。葵を邪険にあしらったとは思えないほどに。それは一瞬で消えてしまったけれど、見間違いでは決してなかった。
「え、なに。まだ何かあるの」
彼の声音も、さっきまでの高圧的なものとは違って、少し戸惑っているように聞こえる。でも目つきはもうすっかりさっきまでの厳しいものに戻ってしまっていた。
「……あの、やっぱりせめてクッキーだけでも」
彼の目の前まで歩を進めた葵は仕舞ったばかりのクッキーの包みを鞄から取り出して、再度彼に差し出してみる。すると、彼はまたさっきまでの冷たい表情に戻ってしまった。
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