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act.8月虹ワルツ<379>
「ちゃんと話聞いてた?受け取る理由がない」
「でも、これはコートを借りたお礼、じゃなくて、えっと……さっきの演奏が素敵だったから、ってことで、どうでしょう、か?」
行き当たりばったりで喋っているからどうもおかしなことになったが、その割にはいい作戦かもしれない。コートや傘は断固として返されようとはしないだろう。だからそのお礼ということではなく違う理由でクッキーぐらいは受け取ってもらえれば、と思ったのだ。
「余計いらない。そもそも他人から貰った食べ物なんて口に入れたくないし。見たところ、手作りでしょ?そういうの気持ち悪いから」
葵の願いは空しく、こっぴどく跳ね除けられてしまった。
大好きな遥が名前も顔も分からない相手のために、葵が親切にしてもらったお礼の気持ちを込めて作ってくれたもの。それをそんな風に言われてしまうのは悲しい。味だって、毎日食べてきた葵が一番保証できる。
でも潔癖だという彼に無理に食べてもらうことは出来ない。彼には彼の考えがあるのだから。葵は自分にそう言い聞かせて、鞄にクッキーの包みを仕舞った。これで一度きり、と決めたチャンスを失ったことになった。いい加減、潔く立ち去るべきなのかもしれない。
葵が今度こそ教会を立ちさろうと決意すると、思いがけなく、彼のほうから声を掛けてきた。
「なんだ、意外とすぐには泣かないんだね」
さっきまでの厳しいだけの顔つきは一変、意地悪そうな笑みを浮かべて彼はそんなことを言った。
「しょっちゅう泣いてるでしょ、君」
彼から泣き虫と揶揄される心当たりは葵には嫌というほどあった。あらゆる理由、あらゆる場所で泣いた覚えがあるから、その幾つかを彼に見られていてもおかしくはない。恥ずかしくて、みっともなくて、葵は頬が火照る感覚を覚えた。
「なんで今日は泣かないの?」
なかなか答えにくい質問である。自分が泣くきっかけなど、葵自身のことであっても説明出来ない。それになぜ彼がそんなことを聞きたがるのかが分からない。
でも確かに葵はどうして今自分が涙一つ溢していないのかと不思議でならなかった。
いつもの葵ならば、初対面の相手に一人で話し掛けることすら相当の勇気がいること。おまけに向こうが好意的でないのなら、すぐにでも逃げ帰ってしまいたいほど怖く思うに違いない。この時点で涙が溢れていないことのほうがおかしかった。
なぜ。
葵は自分に今一度問いかけてみる。すると、案外楽に答えは導きだせた。
「多分……優しい人、だから」
彼の問いへの直接的な回答にはなっていないかもしれないが、葵の口からは迷いなくそんな言葉が出てきた。
きっと彼があの日の恩人であると言う先入観が葵の心を支えてくれる一番大きな理由だろう。それに彼の美しい演奏も、一瞬だけ垣間見た柔らかな表情も、彼が優しい人物だという確信を与えてくれる。
「優しい?誰が?」
「誰って、先輩が」
二人しかいないこの場で他に誰の事を指すというのだろう。葵が当然のように返せば、彼の顔からは一切の笑みが消えてしまった。
「僕は優しい人間なんかじゃないから、気持ちの悪いこと言わないで」
ぴしゃりと叱られて、さすがに葵もへこみたくなる。二度目の“気持ち悪い”だから尚更だ。
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