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act.8月虹ワルツ<380>

「だって寒いのにコート貸してもらっちゃったし、傘まで置いて行ってもらって」 「だから、そんなもの知らないってさっきから言ってるんだけど」 食い下がろうとする葵に苛立ったのか、彼は立ち上がって近寄り凄んでくる。マリア様のように可憐に美しくオルガンを演奏していた彼はもう微塵も残ってはおらず、般若とか鬼とかそういうものに例えたほうがぴったりである。 「でも、やっぱりコートと同じ匂いがします。いい匂い。お花みたいな。甘くてちょっと美味しそうな」 間近で睨みつけられているというのに、またあの香りが漂ってくるから、葵は懲りずに親切にしてくれた人と同一人物だと主張した。わざわざ鞄から問題のダッフルコートを出して、彼に差し出しながら。 「ほら、これと同じ匂い……あれ、しない。なんで?」 「ねぇ、もしかして君のそういうところ、本気なの?嘘だよね?まさかホントにお馬鹿さんなの?」 あの匂いがしないコートを不思議に眺めている葵に、彼は怒り顔を引っ込めて心底呆れたと言わんばかりの表情になった。 「っていうか、レシート貼り付けたままで返すつもりだったわけ?馬鹿な上に間抜けって」 「あぁそっか、クリーニング出したから匂いが落ちちゃったんだ」 コートに付いたクリーニングのタグと領収書を見つけて匂いがしない理由が理解できた。葵は疑問が解消出来てすっきりしたのだけれど、彼は再びオルガンの椅子に腰を下ろしてこめかみを押さえ始めてしまった。 「なんかめちゃくちゃ調子狂うんだけど。参ったな」 彼がさっきまで発していた怒りのオーラは鎮まったようだけれど、今度は彼を困らせてしまったようだ。触り心地の良さそうな柔らかな髪をくしゃりとかき乱し、疲れた目で葵を見つめてくる。 「ごめんなさい、悪気はなかったんです。ただ、お礼がしたかっただけで」 彼を困らせたのなら、とにかく謝罪をするしかない。葵が頭を下げて詫びれば、彼はますます戸惑ったように眉をひそめた。 「これだけ突き放してるのに、どうして寄って来るかな。物好きだね、君も。僕がどんな奴か知らないの?僕とこんな風に話してるの知ったら、君の過保護なお兄さんたちが心配すると思うけど」 葵のほうは彼のことをよく知らないのに、どうやら彼のほうは葵のことをよく知っているらしい。過保護かどうかはさておき、“お兄さんたち”とは冬耶や遥のことだろう。 「お兄ちゃんとお知り合いですか?」 「この学校に在籍していて、あれだけ目立つ生徒会長を知らないほうがおかしいと思うけど」 「いえ、あの、そうじゃなくて……」 「知り合いと言えば知り合い。っていうか君も生徒会の一員なら、次期役員候補の顔と名前ぐらい把握しておきなよ」 葵が彼に関する情報を持ち合わせていないことはバレバレだったのか、プライドを傷つけられたとばかりに彼は睨みつけてくる。 でもそう言われてやっと、葵は記憶の中に彼が居ると気付いた。最近勉強を教えてもらう仲になった先輩、忍とよく行動を共にしている所を見掛けていたのだ。それに、生徒会で一番親切にしてくれる奈央と話している姿も見た覚えがある。

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