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act.8月虹ワルツ<381>
「あ、北条先輩と、奈央さんのお友達!」
「呆れた。それすら今思い出したわけ?ムカつく。自分がそんなに印象薄いなんて知らなかった」
葵が素直に思い出したことを口にすれば、彼はますますむくれてしまった。確かに物凄く失礼な事を言ってしまったのかもしれない。葵は即座に謝ったのだけれど、彼は全く違う方向を見据えてぶすっとした表情を崩さない。
葵はこの状況がいまいち把握できずにいた。彼は最初葵と関わり合うのをひどく嫌がる素振りを見せていたのに、葵が彼のことをほとんど知らないと分かった今、あからさまに拗ねている。
でもさっきまでの冷たい態度や余裕のある素振り、意地悪な物言いをする彼ではなく、今の彼のほうがありのままの姿に近いのではないかという印象を受ける。怒っているのだけれど、葵はより親しみやすさを感じてしまった。きっとこんな事を言ったら、また怒らせてしまうのだろうけれど。
どうしたら彼にまたこちらを向いてもらえるのだろう。どうしたら仲良くなれるのだろう。
必死に考えていたら、葵は彼と交わしたある会話を思い出した。
「あの、市販のものなら召し上がれますか?」
「……は?」
「手作りのクッキーじゃなくて、お店で売られてるものならどうかなと思ったんですが。もし大丈夫だったら、後日改めてお持ちします」
やっと彼は葵を見てくれたが、心底呆れたという風な顔をしている。どうやら懲りずにまた的外れな事を言ってしまったらしい。
「あのさ、仮に既製品なら良いとしてもだよ?受け取る理由がないって散々言ってるつもりなんだけど。っていうか、この話、堂々巡りになるからもうやめようよ。何回繰り返す気?」
彼の言い分はもっともだった。確かにさっきも似た会話を交わした気がする。
普段会話する相手は冬耶や遥といった、葵の思考回路を熟知している人ばかりだから、たまに違う人と話をするといつもこうして失敗してしまう。そうならないために練習をしてきたと言うのに、ちっともうまくいかない。
「そもそも、クッキーの事なんかよりもまず聞くことがあるんじゃない?後日、誰に届けるつもりなの?忍を通して?それとも奈央?」
「あ……そっか」
「君はホントに馬鹿だね。どうしてそんなんでテストの成績がいいんだろう?カンニング?そんな器用なこと、もっと出来ないか」
彼に好き放題言われても致し方ない。でも、うなだれるぐらいは許してほしい。葵だって故意にとぼけているわけではないのだから。
「で?」
「……先輩のお名前、教えてください」
「良く出来ました」
頭を下げて一番初めに彼に聞くべきだっただろう事を尋ねれば、彼は合格、といった風に初めて自然な笑顔を浮かべてくれた。
“月島櫻”
春に咲く美しくも儚く舞い散る花。優雅で気高い彼が演奏中に滲ませた孤独、彼の名前はその美しい容貌も儚げな一面も見事に言い表しているようだ。
彼に相応しいその名前を聞いて、葵は小さな感動すら覚えたのだった。
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