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act.8月虹ワルツ<382>

* * * * * * それ以来、櫻には廊下ですれ違う際に髪をくしゃくしゃにいじられたり、頬を軽く抓られたり、意地悪を言われたりするようになった。 涙が出るほどいじめられることも一度や二度ではなかったし、手加減を知らない彼なりのスキンシップだと分かるまでは時間を要したけれど、そういった期間を経たからこそ今の関係を育めたのだろうと思う。 でもどんなに親しくなれても、あの雨の日の出来事はいつも否定され、はぐらかされてしまう。今日こそは認めてもらえると思ったのだけれど、やはり駄目だった。二人の出会いの話は他言無用ときつく言い含められているから他の人に確かめることも出来ない。 本当にあのコートの持ち主は櫻ではなかったのだろうか。もしそうなら、完全に思い込みで行動していた葵は櫻にとってさぞ厄介な存在だっただろう。 葵は周りの客にならって舞台上の奏者たちに拍手を送りながらも、心が少しずつ沈んでいくのを感じた。勘違いのおかげで櫻と親しくなれたことには感謝したいが、そう手放しに喜べるものでもない。 「葵、どうした浮かない顔して」 一度舞台の照明が落とされ、仄暗くなると忍が耳元に唇を寄せて話し掛けてきた。いくら暗くても隣の忍には葵の表情がよく見えるようだ。 「次は櫻だが、具合が悪かったら無理せず抜けよう。気にしなくていい」 「あ、いえ、そうじゃないんです。長いあいだ勘違いしてたかもしれない事が分かって。恥ずかしいというか、いたたまれないというか」 心配をかけまいと小声で返事をすれば、忍は可笑しそうに笑って吐息を漏らしたのが分かった。 「よく分からないが、大丈夫そうだな。とにかく悩むのは後にしろ。向こうから客席はよく見えるようだから、上の空だとバレたら苛められるぞ」 確かに忍の言う通りだ。実際、律には居眠りを目撃されている。櫻のことだから、葵が集中して聞いていないと後で怒るに違いない。なんといっても今日ここに来たのは、律や唱たちの演奏のためじゃない。櫻の演奏を聴くためなのだから。 他の客からは見えないようにこっそりと忍が手を繋いで来たと同時に、舞台に再び明かりが灯った。 舞台の中央に、黒い輝きを放つグランドピアノが一つ。アナウンスが“月島櫻”の名を告げると、ホール中の空気がピンと張りつめた気がした。こんな緊張感は今までの演目では生まれなかったものだ。 櫻を取り巻く環境を十分勉強させられたから、葵はこれが彼に対する興味や期待だけでなく嫉妬や憎悪の感情が引き起こす現象だと理解する。 この空気の中、刺すような視線をその身一つで受け止めながら舞台上に出なければならないなんて、その苦しさがどれほどのものか葵には想像も出来ない。途端に櫻の事が心配になるが、忍がタイミングよく繋いだ手に力を込めて安心させてくれる。 アナウンス後すぐには現れない櫻に、会場の雰囲気はますます異様なものになっていく。それがピークに達し、もう少しで客席がざわめき立ちそうになるという瞬間になってやっと櫻は舞台袖から姿を現した。

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