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act.8月虹ワルツ<383>

「相変わらず目立ちたがりだな、あいつは」 忍がこう溢すのだから、櫻が遅れて登場したのは会場を焦らすだけ焦らして自らへのハードルをより高く設定するためだったのだろう。 それを聞くと、無数のライトを浴びて颯爽と舞台の中央へと歩いて行く櫻の姿が、より勇ましく見えた。そして贔屓目ではなく、今まで舞台に上がった誰よりも櫻は綺麗だった。その証拠に、客席のあちこちから感嘆の溜め息が聞こえてくる。 彼にとってきっとあそこは敵だらけの、孤独な戦場。でも今日は葵が客席から櫻の味方として見守るつもりだ。 ゆったりした所作で椅子に腰かけ、両手を鍵盤の上にかざす櫻の姿に、葵は思わずぎゅっと両手を握りしめた。 葵が意気込んで応援するまでもなく、櫻はプログラム通りの曲目をスムーズに演奏し始めた。二曲ともここ最近ずっと練習し続けていた曲だからもうすっかり覚えてしまっていたけれど、それでも葵は一音でも聞き逃さぬよう懸命に耳を傾けてメロディを追った。 テンポも速く、激しい曲調の一曲目で、櫻はまずきっちりと観客の心を惹きつける。素人の葵には正直、今までの人たちと櫻との技術の差は分からない。演奏される曲がばらばらだから余計にそういったことは判断しにくかった。 でも櫻には唯一無二の魅力があるということは葵にも断言できる。 白く華麗な指先が力強く鍵盤を叩き、弾けるような音を飛ばしていく。亜麻色の髪は、メロディに合わせて揺れ、そのたびにスポットライトの光を反射してきらきらと輝いて見える。磨き抜かれた革靴が、真鍮のペダルを踏む動きすら滑らかで美しい。 演奏中の櫻は照明を浴びているのではなく、まるで鍵盤から、指から、体から、光の粒を発して周囲を照らしているように思えてならない。 櫻は寮や音楽室でたまに戯れとして葵に色々な曲を聴かせてくれたが、舞台の上で演奏する本気の彼を目の当たりにしたのは初めてだった。 あれこれと難癖をつけたがる月島家の人たちの気持ちも、これでは致し方ないのかもしれないと納得してしまうほど、櫻はずば抜けた魅力を放っている。 二曲目に突入する頃には会場中が完全に櫻のペースに巻き込まれていた。 一曲目とは対照的に柔らかなスローテンポの楽曲。 月島家の当主が認めた人間にしか演奏が許されないという、いわくつきのものらしい。きっと相当のプレッシャーがかかっていると思われるのに、櫻はそれを全く感じさせず落ち着いた様子で演奏を始めた。 長い睫毛を強調させるように目を瞑りながら、曲に身を任せていく。その姿は普段櫻を見慣れている葵でも呆然と見惚れてしまうほど優雅だった。 そうして二曲ともあっさりと弾きこなしてしまった櫻には、当然のように惜しみない拍手が送られた。櫻個人に対する批判はあるがその実力は誰もが認めている、というのは真実のようだ。会場が今までで一番の盛り上がりを見せているのがその証拠。 だが、拍手がようやく静まりだしても、櫻は一向に立ちあがる素振りを見せない。舞台袖から櫻を急かすように手招きするスタッフがちらちらと覗いているが、それでも櫻は立ち去らなかった。

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