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act.8月虹ワルツ<384>

「何かあったんでしょうか」 「さぁ。いつもなら拍手もロクに聞かずに無愛想に帰っていくんだがな」 忍ですら櫻の意図が読めないという。客席もこれから何かが始まるのかという期待と不安で控えめながらざわめきだしていた。 櫻はそういった外野の動きなど全く気にも留めていない様子で、自らの胸ポケットに手を伸ばし、刺さっていた白いバラを抜き取る。そのバラは今日の奏者が全員揃いで飾っている、いわば月島家の印のようなものだ。 そんな大事なものを櫻はぞんざいに足元に放り投げてしまった。もちろん、誰もがその突拍子のない奇行に息を飲む。 月島家の長い歴史の中でも屈指のピアニストになると謳われている櫻が衆人の前で家の証を捨てるなど、決して許されない行動だ。 さすがに舞台裏では強硬手段をとるしかないと判断したのだろう。一旦、舞台上の全ての照明が落とされてしまう。そのあいだに櫻を舞台から引っ張り出すつもりなのは明らかだった。 しかし櫻が先手を打った。 明かりひとつない舞台で、静かにピアノを弾き始めたのだ。曲が始まってしまっては、無理やり櫻をピアノから引き離すことは出来ない。あらゆる名家の人間が見ている前では、バラを捨てる行為よりもそのほうがよほど見苦しいからだろう。 すぐに照明がつけ直され、櫻の追加演奏が認められた。しかし観客が驚いたのはそれだけではない。櫻の胸ポケットにいつのまにか新たなバラが咲いていたのだ。足元の白バラとは好対照の青いバラ。 そのバラには見覚えがあった。それは間違いなく櫻への手土産にと選んだ花束の一輪だろう。 「粋なことをするな、あいつも」 会場中が急な展開についていけず呆然とする中、忍は櫻の行為を面白がって笑っていた。でも葵は櫻の胸のバラよりも、もっと気になることがある。 櫻が荒っぽい手段をとってまで今演奏している曲は、あの日夢の中で聴いたもの。終業式の日に櫻が弾いていたものに違いない。オルガンではなくピアノでの演奏だからアレンジしているようだったが、あの日からずっと胸に残っているメロディを葵が忘れるわけがない。 「これ、なんて曲ですか?」 教養があり、なおかつ櫻と一番親しい仲の友人である忍なら、この曲の名前をきっと知っているだろう。そう確信して尋ねた葵の思いは、思いがけない形で返される。 「そういえば、何を弾いているんだあいつは。俺もさっぱり見当がつかない。見たところこの会場の誰もがそうらしいな。櫻が作曲したものなんじゃないか。よく適当に曲を作って遊んでいたから」 「……え?ええっ!?」 「声を落とせ」 事情を知らない忍には冷静に叱りつけられてしまうが、生憎葵は落ち着いてなどいられない。 櫻のオリジナルの曲ならば、他の誰かが弾けるわけもない。“同じ曲を弾ける人がいる”なんていう櫻の反論は真っ赤な嘘だったのだ。 「やっぱり、櫻先輩だったんだ」 これでやっと拒まれ続けていた“ありがとう”を言うことが出来る。嬉しさと安堵が入り混じった不思議な気持ちが湧き上がってきた。 こんな方法で名乗り出てくれるなんて、あの先輩らしい。出会ったきっかけさえ、彼の分かりにくすぎる優しさだったのだから、今更驚くべきことではないのかもしれないけれど。 改めて彼を慕う気持ちが膨らむのを感じながら、葵はきっと自分の為に演奏してくれているのだろうその甘いメロディに溶けるように耳を傾けた。

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