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act.8月虹ワルツ<385>
* * * * * *
待ち合わせ場所に指定されたのは、学園から一番近いターミナル駅のロータリー。どうしてわざわざこんな場所で。そう思いながらも、文句を言う気は起きなかった。言ったところで無駄になることは今までの経験上わかりきっているからだ。
約束の時間ちょうどに一台のセダンが現れた。国産車のなかでは高級と呼ばれるラインの車種だが、“わ”ナンバーとボンネットに貼られた初心者マークのせいで随分不恰好に見える。
「……これ、乗らないとダメ?」
「大丈夫だって。冬耶乗せて練習したから」
一応は抵抗してみるが、京介の不安をさらに煽る答えが返ってきた。だが後続の車の運転手が早く退けと言わんばかりの視線を向けてくるから、助手席に滑り込まざるをえなくなる。
「つーか、なんで車?」
「あとで迎えに行くって葵ちゃんと約束してるから」
遥はさも当たり前のように言ってのけるが、今日葵がいる場所は月島家の演奏会だ。それがどんな場所かはなんとなく想像がつく。少なくともレンタカーに初心者マークを付けてやってくる者など皆無だろう。
「葵が恥かくから、せめて向こうの敷地内ではそれ外しといてやれよ」
「交通ルール守ることの何が恥ずかしいんだよ」
運転に不慣れなわりに遥のハンドル捌きはスムーズだ。マークさえ外せば初心者には見えないはず。そう思って助言してみても、彼は耳を貸す気がないらしい。窓から流れ込む風に髪を揺らしながら、涼しげに笑っている。
派手な柄や装飾品を好んで着る冬耶と違い、遥はいつもシンプルで小綺麗な格好をしている印象だが、今日はさらにかしこまった装いだ。スリーピースのスーツは遥によく似合っているが、見慣れなくて隣に並ぶのは妙な居心地の悪さを感じる。
「その格好も迎えに行くから?」
「そう、一応ちゃんとした格好で行ったほうがいいかなって」
「……気を使うとこがなんかズレてんだよな」
冬耶と並ぶと至って常識人に見えるが、長年親友として付き合えるだけあって遥自身も相当にマイペースな人間だ。そのことに言及しても、どうせのらりくらりとかわされるだけだろう。
こうなったら遥の用件とやらを早く済ませて退散するほうがいい。
「で、何の用?」
こちらから切り出してみても遥は口元に笑みを携えたまま何も言わない。車内はしばらくのあいだ沈黙が流れたが、赤信号に引っかかるなり遥が急にハンドルから手を離して隣に座る京介の太ももを遠慮なく殴ってきた。
「ってぇな、なんだよ急に」
「あぁ、車にしたのはもう一個理由があって。こうでもしないと暴力振るっちゃいそうだからさ」
「もう振るってんだろうが」
「うん、だからこれ以上の」
どうやら遥は京介に対しての苛立ちを抱えているらしい。視線を向けずに笑顔のまま淡々と告げてくる様は彼の在学時代の伝説の数々を思い起こさせる。
遥が怒りそうなことといえば葵に関連することしかない。生憎、心当たりは山のようにあった。でもこちらから切り出せば藪蛇になりかねない。京介は殴られた太ももの痛みを和らげるように摩りながら、遥が本題に入るのを待った。だが、遥のほうが一枚も二枚も上手だ。
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