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act.8月虹ワルツ<390>

「本気で口説いていいっていうなら、遠慮なく行かせてもらうけど」 ハンドルに凭れ、こちらを見上げてくる遥はその台詞も相まって嫌味なほど絵になる。その気になれば簡単に勝てるとでも言いたげな態度は腹が立つけれど、葵がどれだけ懐いているかを知っていればその自信を否定する材料は見当たらなかった。 「いっそ花と指輪でも用意してプロポーズでもしようかな。こんな格好してるわけだし」 「……は?」 「じゃあまたな」 とんでもない発言だけ残して、彼は爽やかに車を発進させてしまった。窓を開けたままだったから会話は続けられると踏んで扉を閉めていたことが悔やまれる。そのせいで、あっさりと言い逃げされてしまったのだ。 「あぁ、クソ。つーか、マジでここどこだよ」 見送る間もなく車は視界から消え去っていった。見覚えのない街中に一人取り残された事実に愚痴を溢す。 冬耶とはまた違った意味で手強い遥。彼は誰に対してもあんな調子だけれど、京介には特に遠慮がない。家族ぐるみで長く付き合ってきた相手だ。兄弟のような感覚でいるのだろう。 葵に対しても保護者のような存在として振る舞うばかりで、性的に迫る素振りなど見たことがない。だからああしてはっきり宣言されるとは思いもしなかった。 京介が葵に触れていたことが遥を焚き付けたきっかけの一つだということは想像がつく。とんでもなく強力なライバルを目覚めさせてしまったかもしれない。それも葵との時間を確保するのが難しい最悪のタイミングで。 「……プロポーズ、な」 携帯の地図を開いて、最寄駅までの道筋を辿りながら、京介は遥の言葉を反芻する。 思い浮かぶのは幼い頃、葵を藤沢家から逃したい一心で結婚を申し出た時のこと。 結婚をしたら一緒に住める。葵をあの家から救ってやれる。そんな幼い思いだけで告げた言葉を、未だに冬耶や両親からはからかわれるネタにされているけれど、あの時の京介にとって精一杯の本気だった。 葵が何も分からないながらに頷いて京介の手を取ってくれたこともきちんと覚えている。思い返せばその瞬間から、葵は自分のものだという自認が生まれてしまった気がする。 でも実際は遥が言った通り、葵は誰のものでもない。その事実を突きつけられるとどうしようもない不安に襲われた。 「会いてぇな」 しばらく葵を抱いて眠っていないせいか、普段は決して口にしない思いが溢れてきた。友人たちはきっとこんな風に素直な気持ちを葵に伝えろと言うのだろう。 それが簡単に出来るのなら苦労しない。けれど、もしもこの厄介なプライドを崩すことが出来たのなら、葵はどんな顔をするのか。想像出来ないということは、今までそうした向き合い方をしてこなかった証拠なのかもしれない。 平日はサラリーマンが行き交うオフィス街らしき場所をダラダラと歩きながら、京介は葵に送るメッセージの文面を思い描く。 また映画に誘ってもいい。葵が以前言っていた、紫陽花の様子を見に行ってもいい。こちらから声を掛けたことなんてなかったのだから、きっと喜ぶに違いない。 そこまで考えて京介はふと足を止める。 今までは家に帰れば、部屋に戻れば葵が居た。会うための口実も、交渉も必要なかったのに。その変化はどうしようもなく京介の心を抉った。

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