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act.8月虹ワルツ<391>

* * * * * * 午後の部も終盤に入り、パンフレットを見る限りあと三組でこの演奏会が終わるという頃。ステージ上で奏でられる弦楽四重奏を熱心に聞き入っている様子の葵に、忍はそろそろ引き上げようと声を掛けた。 最後まで聴いて帰るものだと思い込んでいた葵は驚いたようだったが、手を引けば素直に後をついてくる。幸い出入り口に近い座席にいたこともあって、特段誰かに見咎められることもなくホールを後にすることが出来た。 「このあと裏のホテルで晩餐会がある」 「あ、はい。そんなお話してましたね」 「会が終われば自然と全員で移動する流れになる。その前にお前を帰さないとタイミングを失う」 不思議そうな顔をして見上げてくる葵にそう説明してやれば、納得する素振りを見せた。 葵が出席するのはあくまで演奏会だけ。初めから約束していたことだ。忍の遠縁として紹介しているけれど、あまり長居させるとさすがに庇いきれなくなってしまう。それにこの会場には葵のことを知る目黒という男や、疑惑を抱いている様子の律がいる。 名残惜しそうな葵には可哀想だが、こうして人気のないうちに会場を出るのが最善の策に思えた。 でも真っ直ぐにエントランスを出ようとする忍を、葵が引き止めてきた。 「あの、最後にもう一度櫻先輩に会えませんか?」 「葵」 「……あ、ごめんなさい、“櫻さん”」 忍が嗜めたのはこの場で禁じている呼び名を改めさせたかったわけではない。それなのに律儀に訂正してくる葵に毒気が抜かれてしまう。 「本当に少しだけでいいんです。一言で済むので」 忍が口を開く前に、葵はさらに言葉を重ねてくる。いつも我儘らしいことを言わないのだから、こんな風に必死に頼みこまれたら何だって叶えてやりたくなるが、今回はそうもいかない。 「俺もそうしてやりたいが、あの派手なパフォーマンスのお蔭で今日はもう表には出て来られないはずだ。さっきのように接触するのは無理だろう」 「それって、またどこかに閉じ込められちゃうってことですか?櫻さん、怒られてしまうんですか?」 「あぁ、葵。頼むからそんな顔をするな」 葵の瞳に涙が溜まるのが眼鏡越しでも分かる。泣かせたいわけではない。 櫻があれほど強引にもう一曲演奏をしたのは、他でもない葵のためだったということぐらい忍も分かっている。二人のあいだでしか通じない何かがあの曲にあったのだろうことも。 自分の知らない二人の絆を見せられて妬く気持ちがないわけではない。でも葵の願いを聞いてやれないのはそんな嫉妬からのものではなくて。 「櫻なら覚悟の上でやっているのだから、大丈夫だ。俺が心配なのはお前だ、葵」 「僕、ですか?」 「櫻がああした行動を起こした理由はお前にあるんだろう?それが月島サイドに分かればお前にもとばっちりが来るぞ。二度も櫻の元を訪ねれば、いくら俺の連れだといっても怪しまれるしな。誰にとっても良い結果にはならないことぐらい分かるな?」 忍が立場の危うさを諭せば、葵は謝罪を口にして俯いてしまう。

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