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act.8月虹ワルツ<393>

「葵」 名を呼ぶと素直にこちらを見上げてくる。残りわずかな時間を最大限有効に使わなければ勿体無いように思い、忍は隣に座る葵へと手を伸ばした。 葵の小さな顔の半分を覆い隠す眼鏡。変装用に用意したものだから野暮ったいデザインで、レンズもクリアではない。そのせいで忍が愛してやまない葵の瞳がぼやけてしまう。ウィッグに引っかからぬよう丁寧にその眼鏡を外していっても、葵は抵抗を見せなかった。 そしてしばらくぶりに晒した葵の素顔と正面から忍は向き合った。もう少しでお別れ。その前に伝えておきたい言葉があった。 「今日は付き合ってくれてありがとう」 「いえ、こちらこそ連れて来ていただいてありがとうございました。本当に楽しかったです」 「そう言ってもらえると安心するよ。慣れない格好で挨拶回りもさせたし、戸惑わせたな。疲れただろう?」 忍が尋ねると、葵は“少しだけ”と遠慮がちに答える。 以前なら葵はきっと無理をして大丈夫だと笑っていただろう。でもこうして正直に自分の気持ちを打ち明けてくれるようになったことが、忍を何よりも喜ばせる。 「相良さんのことだから遅くまで連れ回すようなことはしないだろうが、今日は早く休むように。薬もきちんと飲むこと。いいな?」 「はい、お兄ちゃん」 葵はまるで心配性とでも言いたげな目を向けながらも、忍の言いつけを守ると約束して頷く。でも茶目っ気のある笑い方のおかげで、今日限りの呼び方をあえて使って答えてきたことが分かった。本当に約束を守るつもりなのか怪しいものだ。 「あとは帰るだけだ。もういつも通りの呼び方に戻っても……」 “構わない”と続けかけて言葉を止める。視界の端に会いたくないと願っていた顔が見えたからだ。 「葵、前言撤回」 「え?」 咄嗟に立ち上がり、庇うように前に立つと、葵からは戸惑いの声が掛けられる。 「“お兄ちゃん”はまだ続行だ」 さっき外した眼鏡も装着し直してやってようやく葵もこちらに近づいてくる人影に気が付いたようだ。すっかり気を抜いていたところだったからか、葵は不安を紛らわせるように忍の手を握ってくる。 「言ったでしょ、客席はよく見えるって。二人して抜けちゃうから捜したよ。こんな所にいたんだ」 近づくなり、疲れたと言わんばかりの表情で葵と忍を責めたのは律だった。その言葉は大袈裟ではないらしい。その証拠に少し、タキシードの襟元が乱れている。よほど慌てて二人を捜していたのだろう。 律と一緒にやってきた少女も、頬を火照らせている。律に付き合わされて迷惑したのか、眉を少しだけひそめていた。 「俺たちに用でも?」 「その言い方冷たいよ、忍くん。それとも何か邪魔しちゃって怒ってる?」 律はそうしてわざと忍を挑発するような物言いをしてきた。 櫻は葵のことを忍の片想い相手と説明したらしい。遠縁だという嘘については貫き通したらしいが、この調子ではそれすらも疑ってかかっているのだろう。それに櫻との仲も気に掛けているらしい。 あくまで表面上は櫻から何も聞かなかったかのように接してくるが、ボロを出すのを待ち構えている気がする。だからこうしてわざわざ追い掛けて来るのだ。そうまでして櫻の弱みを握りたいとは。ある意味、櫻より捻くれた厄介な性格をしているかもしれない。

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