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act.8月虹ワルツ<396>

「ただ……すごくムカついたんだ」 言葉のわりに、律の声には怒りが込められてはいない。むしろその台詞が不似合いすぎるほど弱々しい。 人懐っこくて明るい律も、月島の人間らしく捻くれている。ただ悪い奴ではないことも、幼い頃からの彼を知る忍は理解していた。だから弱みを見せた律に徹底的な仕返しをするのではなく、彼の本音に耳を傾けてやる。 「忍くんが遠縁の子と来てるって教えた時、兄さんが笑って。あんな顔、初めて見た。だから、ムカついた」 「櫻が笑うことが気に食わない?」 「だって、俺は死ぬほど嫌なんだよ?兄さんと一緒に演奏会出るなんて」 耳の肥えた客の前で同じ舞台に上がる。ずば抜けた才能を持つ櫻の弟として、律がプレッシャーを感じるのも無理はない。 そして何より律を苦しませるのは、演奏後に降りかかる同情と見え透いた世辞の嵐だ。櫻にはどうしても及ばない律を皆して憐れみ、慰める行為がどれだけ非情なことか。 「それは櫻にぶつけるべき怒りじゃないし、葵にはもっと関係がない。お前の神経を逆撫でる原因は他にある。そこにぶつけろ。自分でも分かっているだろう」 「……なんか忍くんが俺のお兄ちゃんみたいだね」 忍が律を諭せば、意外な言葉が返ってきた。 櫻は兄弟に対して全くの無関心を貫いている。そのせいで、傍にいた忍がいつのまにか櫻の弟や妹に懐かれる羽目になった。だから律から兄みたいだと言われるのも一度や二度のことではない。こうして律が思いのほか素直に気持ちを打ち明けてくるのも、忍を慕っているからに他ならない。 「だからさ、忍くんのことも気になったっていうのは本当。初めて見るような顔ばっかしてたもん」 「そうか?」 「そうだよ。デレデレしまくってた。忍くんに相手にしてもらえない人たちが怒ってたよ。あの子は何者だって」 容姿や頭脳、家柄。良家の子女にとって忍は、どの点においても文句のつけようがない存在だという自認はある。アプローチをかけたそうにする視線には気付いていたが、構うつもりはなかった。律から話を聞いても、どうでもいいとしか思えない。 「で、本当のところ三人はどういう関係なの?忍くんと兄さんの片想いで、葵くんを取り合ってるとか?」 めげない律は話をまた元の方向に戻そうと、忍に詰め寄ってくる。“片想い”なんて単語には反論したくてたまらないが、今の所事実なのだから仕方ない。それにいくら本音らしきものを律が見せたところで油断は出来ない。律が葵の存在を利用したがらないわけがないのだ。 一体どう取り繕おうか。厄介な律を前にして、忍はまた一つ、深いため息をついた。 でもそこで助けがやってきた。庭園の花々を見て何やら楽しそうに会話をしていた葵と奏が戻ってきたのだ。話が終わったという合図も送っていないのになぜ戻ってきたのかと思ったが、葵が携帯で電話をしていることに気付いて理由に思い当たる。 迎えの遥が到着したのだろう。 「律、この話は一旦終わりだ。いいな?」 忍は不満そうな律にそう言うと、遠慮なく近づいて来させるために葵を手招いてやった。 すると、葵はのんびりした歩調から小走りに変えて忍の元にやってくる。別に急げと言ったわけではないのに、こうした従順な反応をされるとやはり可愛くて仕方がなくなってしまう。

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