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act.8月虹ワルツ<398>

* * * * * * たまにはこんな格好をしてみるものだ。苦手な車に乗る行為よりも、見慣れない遥の出で立ちへの驚きが勝ったらしい。助手席ではしゃぐ葵の姿を見ると、遊び心が良い効果をもたらしてくれたことに安堵する。好きな子に“かっこいい”と言われて、悪い気もしない。 ただ、遥が行き先の希望を尋ねると途端に葵の表情が曇った。“寮に帰る前に”と誘ったのがいけなかったようだ。今夜離れ離れになることを思い出して寂しくなったのだろう。 「そうだ。前に七瀬が言ってたカフェ、行ってみようか。ほら、チーズケーキが美味しいって自慢してたところ」 遥が作ってやったお菓子を口一杯に頬張りながらも、遥が作るものよりも美味しかったなんて生意気なことを言ってきた七瀬。遥はいつもの軽口だと受け流したけれど、葵が遥を庇うように反論したのが印象的だった。 出会った頃は冬耶に何もかもを代弁してもらっていた子が、友達と言い合えるようになるなんて感慨深かったのだ。 「俺が作ったのと、どっちが美味しいか検証してよ」 「絶対遥さんのほうだよ」 今も葵は食べる前からムキになって言い返してくる。父に教わりはするが、遥はただ趣味で作っているだけ。プロに負けて当然なのだが、葵にとっては“特別”らしい。自分が葵の中でどれだけ大きな存在なのか。真剣な葵には悪いが、こんな時に実感させられて遥を喜ばせた。 「残念。食べ比べはまた今度だな」 そういえば七瀬は午前中に行かないと売り切れる、とも言っていた気がする。その忠告を今更思い出したところで遅かった。近くに車を停めて向かったはいいが、店前には目当てのチーズケーキがすでに完売したことが書かれた紙が掲示されていたのだ。 遥たちと同じ目的でやってきたらしきカップルは、他のケーキなら食べられると知って店内に入って行った。せっかく来たのだから自分たちも彼らのように今あるものを楽しめばいい。そう思って遥は葵の手を引いたのだけれど、葵は今にも泣き出しそうな顔でこちらを見上げてきた。 「今度って、いつ?来週?」 昨夜の段階で葵が別れを意識し始めていたことには気が付いていた。でもまだ遥が何も言っていない状態でここまで思い詰めてしまうとは。悩み出すと悪い方向にばかり考えてしまう癖は改善していないようだ。 「車に戻ろうか」 「……もう帰るの?」 葵を宥めるのに店前は不向きだ。だから場所を変えることを提案したというのに、葵はやはり最悪のことを考えてしまうらしい。 「違うよ。車の中なら沢山抱き締めてあげられるから」 そう囁いてやってようやく葵は遥の手を握り返してくれた。 店のある大通り沿いの駐車場は全て埋まってしまっていたせいで、遥たちは少し外れた場所に車を停めていた。その移動の距離すらもどかしいのか、葵の歩調が心なしかいつもより速い気がする。 今は遥に抱き締められることだけで頭が一杯になっているはず。そう思うと、いっそ車内などではなく、家に連れて帰る選択肢を示せば良かったと悔やみたくなった。窓から覗き込まれる可能性を考えて、健全な触れ合いしか出来ないのだから。

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