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act.8月虹ワルツ<399>

遥が後部座席に乗り込むと、すぐに葵も隣に滑り込んできた。そして躊躇いなく遥の腰に腕を回してくる。その拍子に葵が朝から身につけたままのウィッグの硬い毛先が、遥の鼻をくすぐってきた。 「暑くない?もう外してもいいんだよ?」 これを聞くのは二度目だ。演奏会の会場を出た直後も同じように促したけれど、葵は被ったままでいたがった。今もそうだ。遥の誘導を拒むように首が振られる。コンプレックスである地毛を隠せて嬉しいのだろう。だが、こんな向き合い方を覚えてほしくはない。 「葵ちゃんの頭、撫でてあげたいんだけどな」 「……じゃあ違うとこ撫でて?」 葵は時々遥でも思いもよらない切り返しをしてくる。受け取り方によっては相当な誘い文句に聞こえるそれを与えられて思わず息を呑んだ。 「天然ってこわいな。車で良かった」 外からの視線を遮れる完全な密室ならキスの一つや二つ、平気でかましていたと思う。理性を保てたことにホッとするが、この子がすでに体中に愛撫を受けた経験があることを思うと複雑な気持ちにもさせられた。 リクエスト通り、回した手で背中を撫でてやると、葵の体から段々と力が抜けていく。落ち着いてきたのを見計らい、遥は葵の本音を探るためのお喋りをスタートさせた。 「寮に帰りたくない?月島と話したいことがあるって言ってなかったっけ?」 演奏会では忍の親戚として振る舞い続けられたようだが、そのおかげで櫻とは一度出番前に会えたきりでまだ感想を伝えられていないと言っていた。だから今夜は彼の部屋を訪ねるつもりだとも教えてくれたのに。 「でも、遥さんとも一緒に居たい」 それとこれとは別物だ。そう言いたげに遥にしがみつく力が強くなった。 「遥さん、いつ帰っちゃうの?」 「まだ決めてないよ」 「それって、明日でもありえるってことでしょ?」 未定という言葉に希望を見出せないどころか、不安を煽ってしまうだけのようだ。こんな風に言葉で応酬してくるところも、葵の成長を感じてしまう。以前はただ涙を溢して唇を噛み締めるだけだったのに。 「日にちが決まっていたほうが安心できる?それなら決めておこうかな」 「あ、待って。すぐ決めてほしいってわけじゃなくて」 「あれ、違うの?じゃあどうしてほしい?」 こんな尋ねた方が卑怯なことは分かっている。葵の一番の希望は、遥が日本に留まることなのだから。そんな我儘を言ってくれたって構わない。葵が何よりも遥を求めてくれるのなら、その手を取る心づもりはとっくに出来ている。 「今日も遥さんと寝たい」 今の葵にはこれが精一杯の願いのようだ。帰国を引き止めることに比べたら随分いじらしい願いではあるが、寮に帰るよう促されるのは分かっているのだろう。葵の顔には諦めの色が浮かんでいる。 「じゃあ今夜の分まで抱っこしてあげる。おいで」 暗にノーと言ってしまったからか、葵はますます不服そうな顔にはなるが、両手を広げた遥の誘いを受けて向かい合わせになるように乗り上げてくる。新しい後輩が増えるからもっとしっかりする、なんて宣言したのは昨日のことだというのに、甘えん坊の卒業はまだまだ先になりそうだ。 でも葵を労ういい機会かもしれない。

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