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act.8月虹ワルツ<414>

「いま、何時?」 微睡みの中にいた葵は、窓の外がすっかり暗くなっていることに気が付いて、背後からぴったりと纏わりつく愛猫に声を掛ける。 「夜」 ちっとも役に立たない答えをくれた彼は、珍しく声音だけで上機嫌だと分かる。ついさっきまで仕上げのように葵の全身、それこそ顔中や足の指先に至るまで隙間なく好き勝手に舐め尽くしていたのだからさぞ満足なのだろう。 「……あのね、ちょっと怒ってるんだけど」 「なんで?いいって、言った」 許可を取ったと主張されると弱い。確かにそうだ。許可は出してしまった。けれど葵からすれば、なし崩しで言わされたようなものなのに。 せめてもの抵抗で葵の肌を撫でてくる行儀の悪い手をぺちんと叩くと、今度は違う作戦で葵を丸め込もうとしてくる。 「寂しかった」 「みゃーちゃんは寂しいとああいうことしたくなるの?」 どういう原理なのだろう。さっぱり理解出来ない。でも甘えるように首筋にキスしてくる猫を突き放すことなど到底無理だ。これからは出来るだけ都古を寂しがらせないようにしなくては。そんなことを考えてしまう時点で葵の負け。 「本当に何時だろ。夜ごはん、食べに行かなくちゃ」 さすがに食堂が閉まる時間までには至っていないと思うが、不安ではある。ベッドから上体を起こすと、名残惜しそうにしながら都古もついてきた。 「俺、お腹いっぱい」 「そうなの?お昼たくさん食べた?」 だとしても、数時間は経っているはずだ。怪我の影響で食欲がないのだろうか。心配になって尋ねた葵を、都古は欠伸をしながらあっさりと裏切ってみせる。 「アオの、ミルク」 「……ッ、信じらんない」 都古が何を揶揄したかをすぐに理解出来なかったけれど、分からないままでいたかったと悔やみたくなるほどの発言だった。悪戯っぽく笑う都古に思わず枕を投げつけるが、あっさりとキャッチされてしまう。 もうこんな猫は置いていってしまおう。葵はそう決心してベッドに散らばる衣服を拾い集めるが、そこでも嫌な事実に直面させられる。 「え……なん、で」 下着を汚してしまったことは覚えている。けれど、忍から借りたジャケットやシャツに染みが出来ている理由が分からない。都古に脱がされて、安全な場所にあったはずなのに。 「忘れた?アオ、ここに、擦り付けてた」 都古が指で示したのは、シャツの袖口に光る貝殻で出来たボタン。 一体いつ、何をここに擦り付けていたのか。記憶はぐちゃぐちゃで曖昧だけれど、都古が与える快楽の波から逃れようと、ベッドの上を這ったのはうっすらと蘇ってくる。その時のことだろうか。 確認しようかと口を開きかけたが、肯定されても、否定されて正しい情報を教えられても立ち直れそうにない。 「みゃーちゃんも忘れて?」 「やだ」 懇願は検討する間もなく却下された。葵に縋ってきた時の弱々しい都古は幻だったのかもしれない。 なんにしても、これでは忍にこのセットアップを返すことは出来ない。クリーニングに出せば落ちる染みかもしれないが、一度こんな汚れがついたものを素知らぬ顔で返せるほど図々しくは振る舞えない。 忍はあげると言ってくれたのだから気に病むことはないだろうが、世話になってばかりの状況に溜め息が溢れる。それもこんな情けない理由でなんて。 食事はいらないと言ったのは冗談だったのか。都古から借りたTシャツとズボンに着替え終わった葵に、彼は当たり前のようについてこようとする。それは構わないのだが、部屋を出る前に尋ねられたことはあまりにも脈絡がなくて驚かされた。 「あれから、九夜に会った?」 「ベランダから見かけた後ってこと?」 「そう」 さっきまでの笑みを引っ込めた都古の表情は怖いほど真剣だった。でも葵に心当たりはない。若葉の対応は冬耶に任せるようきつく言い含められている。遭遇しても逃げろと指示されているのだから、そんなことがあればとっくに報告していた。そう告げれば、都古は眉をひそめたあと、押し黙ってしまった。 「みゃーちゃん?どうしたの?」 気掛かりがあるのかもしれない。都古を見上げると、誤魔化すようなキスが落とされた。もう一度質問をしようとしても、また唇を塞がれる。埒が明かなくて、結局葵が諦めるしかなかった。 一体都古は何を確認したかったのだろう。周りが無表情だと言っても、葵だけは都古の感情を読めていたはずだった。それなのに、今隣にいる彼が何を考えているのかは全く見当がつかなかった。

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