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act.8月虹ワルツ<415>

* * * * * * 早く帰りたい。月島家の人間がいる場では常に思うことだけれど、今日は一層強く思う。 葵が会いたがっていると忍から伝え聞いただけでなく、本人からも寮で帰りを待っていると連絡があったのだ。くだらない晩餐会など投げ出して、今すぐにでも駆けつけたいのに。 「今日も素晴らしい演奏だった、櫻。お前がピアノを弾く姿は天上人のようだと客たちが言っていたが、私もその意見には同意だ」 手放しで櫻に賛辞を送ってきた車椅子の老人は、月島家のトップであり、櫻の祖父だ。 スポンサー連中への挨拶回りを嫌々させられたあと、ようやく帰れると期待した櫻を呼び出したのは彼。他の親戚なら無視をするところだが、さすがに真っ向から彼に歯向かうことは出来ない。 「天使だって崇めたり、淫売って貶したり。あいつらの情緒はどうなってるんだか」 どう評価されようと櫻の知るところではないが、随分勝手なものだとは思う。コロコロと意見を変えてみっともないという自覚はないのだろうか。 「好きに言わせておけば良い。お前の実力で全て捩じ伏せろ」 「うん、そうしてる」 この人は早くから櫻の才能を見出していた。律を繰り下げてまで長男として櫻を迎え入れる案が通ったのも、彼の後ろ盾があったからだ。それを依怙贔屓と捉えた人たちが、本当は彼の息子なのではないか、なんて下世話な噂を立てているが、全く気にしていない様子だ。 「律の演奏は聴いたか?」 櫻が紅茶を啜れば、祖父は話題を変えてきた。 その頃ステージから一番遠い控え室に押し込められていた櫻は当然律のピアノを耳にしていない。首を横に振ると、彼は深い溜め息を吐き出した。 「お前が居る場だと途端にぎこちなくなるな。表現も凡俗で面白みに欠ける」 律だって幼い頃から英才教育を受けている。なんなら、音楽科のある高校に通っている分、櫻よりもピアノに触れられる時間は多いはずだ。それでも評価はちっとも上がらない。一般的に見れば十分に力はあるのだけれど、一つ上に櫻がいるだけで彼は日陰の存在から抜け出せないでいる。 「こんなことならお前に辞退などさせてこなければ良かった。むしろ甘やかさずに早くにへし折っておけば、反動で多少は伸びたかもしれんな」 苦々しい顔で祖父が告げて来たのは、ピアノのコンクールについてのことだった。 月島家に入ってしばらくは嫌というほど参加させられたが、櫻が賞を総なめにする一方で、律は入賞すら叶わずに下位で終わることもあった。 一時期から櫻はその状況を危ぶんだ祖父からコンクールに出ることを止められていたのだ。そこで勝ち得た肩書きがなくとも櫻ならやっていけるという意見には賛成だったし、そもそも参戦することに興味はなかった。 祖父の期待通り、櫻のいないコンクールでは律も伸び伸びと演奏できて順位は上がっていったが、限界を迎えた。最近ではまた振るわない結果が続き、周囲から憐れまれていると聞いた。執拗に櫻に絡みたがったのも、そのストレスからかもしれない。

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