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act.8月虹ワルツ<417>

「そういえば櫻。あれはなんだったんだ?余興としては楽しませてもらったが」 「うん?……あぁ、三曲目の話か」 呼び出された時はそれが理由だと身構えていたことを忘れていた。 あの日、葵にコートを掛けたのは自分だと名乗り出るために弾いたワルツ。葵だけに真意が届けばいい。あとから色々と噂されることは覚悟していたが、櫻が予想していた以上に反響は凄まじかった。 晩餐会でも客たちは皆そのことを口にしてきたし、月島家の面々は神聖なステージを汚したと憤慨していた。だからてっきりお叱りを受けるのだと思っていたのだけれど、この反応を見るに、彼はさほど気にしてはいないようだ。 だが呑気にやり過ごそうとした櫻に対し、祖父は思いがけないことを言ってきた。 「忍君は北条家の大事なご子息だ。妙な噂が立つようなことのないように気をつけなさい」 「は?忍?何の話?」 「あぁ、いや、お前たちがその……」 急に歯切れが悪くなった祖父から聞き出したのは、櫻が忍と付き合いだした、なんていうとんでもない説だった。忍が連れて来た親戚の子は、二人の関係を誤魔化すためのカモフラージュだという見方までされているらしい。 いつもは櫻宛てとはいえ形式上皆で分け合える手土産を選びがちな忍が、今日に限って花束を持って来たことも、その花を櫻が胸元に挿して演奏したことも、二人の熱烈な関係を示しているのだと勘ぐらせてしまったらしい。 花の贈り主は葵だし、演奏だって葵のため。けれど、野暮ったい黒髪眼鏡姿の葵が櫻や忍の相手にはなりえないと判断する者が多かったのだろう。それに北条家の跡取り息子であり、容姿も端麗な忍とのスキャンダルのほうが、噂として大いに盛り上がるからなのかもしれない。 「……ッ」 祖父の手前馬鹿みたいに笑うのだけは我慢したけれど、堪えきれなかった吐息が室内に響く。忍となんて死んでも御免だ。友人としての好意はあるが、そんな対象として見たことは一度だってない。 「櫻、いずれは終わりが見えている関係だ。若さゆえの勢いもあるだろうが、冷静になりなさい」 祖父は顔を伏せて肩を震わせる櫻の様子を、泣いていると勘違いしたようだ。思いのほか人道的な説得をしてこられてますます笑いが溢れてくる。 「いや、大丈夫。忍は無理、絶対有り得ない」 「なんだお前、笑っていたのか」 顔を上げると、祖父はようやく己の間違いに気付いて険しい顔になった。 「今日から淫売の子らしくお坊ちゃんを誑かした魔性とでも言われるのかな」 「……全く、いい加減にしろ」 体格差や櫻の女性的な顔立ちのせいで、まず間違いなく櫻が忍を受け入れる側だと見なされるだろう。引き続きどうぞお好きに噂すればいいとは思うけれど、忍に抱かれる妄想をされるのは癪だった。櫻は葵を抱きたいとしか思わないのだから。 それから祖父には進学先を真剣に考えろというお達しと、櫻への支援を申し出ているスポンサー陣に愛想よく振る舞えというお説教を与えられてようやく解放された。 これでやっと寮に帰れる。部屋を出た櫻が息をつくと、背後から嫌な声が響いた。

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