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act.8月虹ワルツ<418>

「櫻君」 振り返らなくても分かる。櫻に異様な熱量を持って接してくる実業家の男、目黒。晩餐会が開かれているホールから離れた場所なのだから、わざわざ後をつけて待ち伏せていたに違いない。 「迷子ならスタッフを呼んでアテンドさせますけど?」 「いや、必要ない。櫻君と話をしたくて待っていたんだ。少し時間を貰えないかな?」 嫌味をそうと受け取らず、目黒は櫻の前に回り込んで訴えてくる。 晩餐会の最中にも彼の存在は認識していた。櫻と話したそうにずっと視線を送って来たし、櫻がゲストとの会話を終えればすぐに近づいて来ようともした。それをのらりくらりと躱していたのだけれど、彼は全くダメージを受けていないらしい。 「今日の演奏の感想を伝えたくて。プログラムにあった二曲とももちろん素晴らしかったけれど、三曲目は櫻君が作ったものだろう?作曲をしているなんて知らなかった。他にもあるのなら是非聴かせて欲しい」 櫻がうんざりした顔をしているのも気にせず、彼は一気に思いをぶつけてくる。全く、こういう空気の読めない前向きな馬鹿は扱いに困る。 「疲れているので。これで失礼します」 「あぁ、すまない。全く、気が利かないな私は。疲れているのはもっともなのに。そうだ、私の車で送ろうか?月島の本宅ではなく、学校に帰るんだろう?確か寮暮らしだったよね」 「……はぁ」 父親に近い年齢の男が鼻息荒く迫ってくる姿は滑稽という言葉がぴったりだ。彼は櫻をそういった対象として見ているわけではないと事あるごとに言い訳しているけれど、櫻が視線をやるだけで肩を震わせて歓喜するのだから相当に重症だ。 初めはただ実母への想いを重ねているのかと思っていたが、どうやら櫻自身に熱を上げていると見て間違いないだろう。 そんな男の車に乗り込めば、何をされるか分かったものではない。誰が通るとも分からないホテルの廊下ですら、彼は櫻の唇にチラチラと視線をやってくるのだ。 とにかく人気のある場所に向かうしかないが、彼と二人でエレベーターに乗り込むことは避けたい。 顔立ちのせいで女性に勘違いされることもあるが、櫻はれっきとした男だ。身長だって生徒会では葵に次いで低いが、周りが高すぎるだけで世間一般では低身長の部類には入らない。痩身ではあるけれど、非力なわけでもない。 だが櫻よりも背が高く、スーツの上からでも分かるほど筋肉質な目黒に迫られたら、簡単に押し除けられはしないだろう。もちろん紳士であろうと必死に努めている男が公共の場で理性を失う可能性は低いが、警戒するにこしたことはない。 とはいえ、客室が並ぶだけの廊下で他に逃げ場もない。非常階段に行けば、それこそ人の目がなくなり、無闇に己を危険に晒すことになる。せいぜいほんの十数秒だ。エレベーターという箱の中に同乗して耐え切るしかないか。

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