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act.8月虹ワルツ<421>

「このあいだ伝えたデビューのことも改めて提案させてほしいし、今度どこかで食事でもどうかな?櫻君は何が食べたい?フレンチなんてどうだろう?」 食事の誘いを受けてすらいないのに、行き先の話を進める傲慢さに虫酸が走る。母はどうしてこんな男の相手をしていたのだろう。そんな疑問が浮かぶが、すぐに答えに辿り着く。 生憎櫻は彼の財産には微塵も興味がない。仮に彼に集る必要があるぐらいに金銭的に追い込まれることがあったとしても、その時は喜んで北条家のご子息様に頭を下げさせてもらう。 「申し訳ない、疲れているところ。これ、私の連絡先だから。それから大したものではないんだけれど、これも」 彼からそうして名刺と貢物を捧げてくるのも毎度のこと。受け取る気は微塵もない櫻が無言でいるうちに、空気を読んだ運転手が“預かる”と申し出る。そろそろ帰らなくては、と声を掛けてくれるいい働きまで見せてくれた。 月島家の面々だけでなく、それに仕える使用人たちもいけ好かない人間ばかりだが、この運転手の彼はまともな部類に入ると認めていた。 目黒の熱烈な見送りを受けながら、車は静かに走り出す。 演奏会の日は体力的にも精神的にも疲れ果てるが、今日も例に違わずシートに沈む体が鉛のように重い。でも心は思ったよりも荒んではいなかった。 “遅くなりそうですか?” なかなか帰ってこない櫻を心配して、葵が新たにメッセージを送ってきてくれていた。帰りの時間を確認されるなんて、まるで同じ家に住んでいる恋人や夫婦のよう。そんな疑似体験が櫻を癒してくれる。 帰路についたと返事をすれば、すぐに嬉しそうな表情を浮かべたキャラクターのスタンプが返ってきた。 葵は櫻に直接会って伝えたいことがあると言っていた。それが何かは想像がつく。教会での出来事についてだろう。 葵からの礼を拒み続けていたが、いよいよ観念しなくてはならない。その覚悟であの曲を奏でたのだ。でもいざその時が迫るとどんな顔をして葵に会えばいいのかが分からなくなってきた。 それに礼を言いたいのは櫻のほうだ。 あの時葵に出会っていなければ、きっと櫻は誰かを愛しく思う感情を知らずにいたに違いない。 葵は否定するけれど、櫻は心優しい人間などではない。嫉妬や憎悪にまみれた世界で平然と生き抜けるのだ。本質的には自分も立派な月島家の一員なのだと思う。けれど、葵と接するたびに自分の新しい側面が見えてくる。人を愛せることがこれほど幸福だとは知らなかった。 あの小さな体を抱き締めたい。けれど、抱き締められもしたい。素直に思えることも一年前の櫻ならば全く信じられない現象だっただろう。 「飛ばして」 一秒でも早く葵に会いたくて、安全運転を心がける運転手に声を掛ける。演奏会の後は常に不機嫌な櫻の声音が弾んでいることが不思議だったのだろう。彼はバックミラー越しに櫻の表情を確かめてくる。だが、答えを見つけることなど出来るわけがない。 車窓から見える夜景が流れていくスピードが上がったのを確かめながら、櫻は小さく笑みを溢した。

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