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act.8月虹ワルツ<427>
* * * * * *
いつも聞こえていたピアノの音がない廊下。それだけで無性に寂しい気持ちにさせられる。寮の消灯時間が訪れ、窓から差し込む月明かりのほうが眩しく感じられるぐらいの照明しか灯っていないから余計かもしれない。
自分の部屋に居ても落ち着かなくて、こうして櫻の部屋のドアに凭れてからどれぐらいの時間が経っただろう。
櫻から返信があったのは、夕飯を終えて寝支度を整えてからのことだった。それから携帯だけを握り締め、ただひたすらに櫻が現れた時に掛ける言葉を思い浮かべている。
あの日受け取ってもらえなかったお礼を言うことはもちろんだけれど、どうして今になって認めてくれたのか、今まではぐらかし続けたのはなぜか、聞きたいことは沢山あるのだ。
伝えたいことを箇条書きにして携帯にメモしては修正する作業を繰り返していると、不意に窓から差し込む月明かりが遮られる。月に雲が掛かったのかと思ったが、そうではなかった。
「まさかこんなとこで待ってるとは思わなかった」
「櫻先輩っ」
待ち望んでいた声。慌てて顔を上げれば、そこには少し呆れた表情を浮かべた櫻が居た。月光を浴びた髪がキラキラと輝き、長い睫毛が頬に影を落としている。教会でオルガンを弾いていた美しい姿を想起させて、胸が熱くなる。
「どんな顔して会いに行こうって悩んでたの、無駄だったな」
「悩んでたんですか?どうして?」
「そろそろ分かってきたんじゃないの?僕の性格」
櫻は自嘲気味に笑いながら自室の扉を解錠し、中に招き入れてくれた。
当時言葉を交わしたこともなかった葵に、わざわざ自分のコートを掛けるだけでなく、傘まで置いて行ってくれた。けれど呼びかけても名乗り出ることはせず、葵が直接問いただしても絶対に認めなかった。
櫻は優しいけれど、その優しさは随分分かりにくい。あえてそうしているとしか思えないことばかり。意地悪も言うし、厳しく叱ってくることもある。でも彼は仲の良い友人であればあるほどそうしたコミュニケーションをとりがちだと理解出来てからは、不安に思わなくなった。
それに、常に自信に満ちている櫻の繊細な一面も垣間見えるようになった。きっと櫻は誰にでもはそんな姿を見せないはず。葵は特別に親しくなれた気がして、彼のそうした面を見られると不謹慎かもしれないが嬉しいと思えてしまっていた。
「とりあえず、ただいま葵ちゃん」
部屋に入り、手にしていた荷物をソファに放った櫻は、そう言って葵を抱き締めてくる。頬に触れる髪からはいつもの香りがした。
「おかえりなさい、櫻先輩。それと、お疲れ様です」
葵からも彼の体に腕を回し、労う言葉を贈った。葵ですら長い一日だと感じたのだから、櫻にとっては本当に大変な日だったろうと思う。
「ねぇ葵ちゃん、パジャマ着てるってことはもうお風呂入ったんだよね?」
「……え?あ、はい。一応」
「じゃあ寝る支度は済んでる?あとは寝るだけってことでいいよね?」
葵としてはもう少し再会の余韻に浸って抱き合っていたかったのだけれど、なぜか櫻は矢継ぎ早に質問を繰り返してきた。その全てに頷きを返すと、櫻は葵を寝室へと導いてきた。
「ここで待ってて。すぐにシャワー浴びてくる。言っておくけど、寝てたら問答無用で叩き起こすから」
「大丈夫です、櫻先輩とお喋りしに来たんですから」
「どうだか。お子様だもんね、葵ちゃんは」
クローゼットから着替えを取り出しながら、櫻はいつも通りの意地悪を投げかけてくる。その横顔はひどく楽しげだ。
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