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act.8月虹ワルツ<429>

「何から何まで想定と違うな。そんな顔させるつもりなんてなかったんだけど」 「……ごめんなさい。どうしても気になって」 葵を見下ろす櫻の視線は厳しくはない。むしろその逆で。それが余計に葵の心を締め付けた。 「図々しいとは思うけどさ、全部なかったことにしてくれって頼んでもダメなの?葵ちゃんにとっては辛いだけの日だったでしょ。お互いそのほうがいいんじゃない?」 櫻は葵の髪を撫でながら、二人のための提案をしてくる。その言い分が分からないわけではない。実際、今まであの出来事についてはお互いきちんと言及してこなかった。そのまま蓋をしていればいいと言われるのももっともだ。 「でも櫻先輩が喜んでくれることがしたいって思うんです。このあいだはうまく出来なかったから……」 「え、ちょっと待って。何言ってるの?まさかアレを着ようとか思ってないよね?それが僕のためになると思って?」 葵が言いかけた言葉を遮る櫻は、初めて見るぐらいに狼狽えていた。問いただすように肩を掴んでくる力も加減が出来ないのか、痛みを感じるほど強い。 「あ、今すぐはちょっと無理かもしれないですし、それにお出掛けはやっぱり恥ずかしいので櫻先輩だけにしか見せたくないとは思いますけど」 「だから待ってってば。ストップ。それ以上言わないで」 櫻はまたしても葵の口を噤ませてくる。きつく抱き締められ、仕方なく葵は己の気持ちを主張することを中断させた。 「自己嫌悪で死にそう、最悪」 肩口で苦々しげに吐き出されたのは櫻らしくない言葉。葵は櫻を責める気なんてこれっぽっちもない。むしろその逆だ。それがこんな風に櫻を追い詰めるとは思いもしなかった。 喋るなと言われた葵に出来ることは凭れてくる体を抱き返すことぐらい。 低血圧で低体温。だから朝は苦手なのだと櫻は言っているが、シャワーを浴びたばかりだからか、質の良い布地から伝わる体温は葵よりも高い気がする。でもこのまま洗面所で抱き合っていたら湯冷めしてしまう。 「……あの、櫻先輩?体冷えちゃいます。寝室に戻りませんか?」 勇気を出して提案してみると、少ししてつま先が宙を浮いた。 「え?ちょ、先輩?」 無言で抱き上げられて戸惑う葵に、櫻は何も言ってはくれない。怒らせてしまったのだろうか。でもそれならこれほど優しく抱えられる意味が分からない。辿り着いたベッドに葵の体を下ろす仕草だって、とびきり丁寧なのだ。 「なんなの葵ちゃん」 葵に寄り添うように隣に転がってようやく櫻は口を開いてくれた。でもその表情は感情が読めない。苛立っているようにも見えるし、悲しそうにも受け取れる。 「何、と言うのは……?」 「なんでそうやって僕に合わせようとしてくるの?無理して笑って、辛いの我慢してまで」 櫻が言うように無理をしたつもりも、我慢をしたつもりもない。ただ湧き上がった感情を素直に口にしただけだ。でもそれを伝えたところで櫻が簡単に納得してくれるとも思えなかった。

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