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act.8月虹ワルツ<430>

「出会った時もそう。かなり酷い事言って突き放した自覚はある。それなのに泣くの我慢して、必死に食い下がってきて」 櫻はそう言いながら葵の頬に触れてきた。まるでそこに涙の痕がないことを不思議がるように指でなぞってくる。 「それは、お礼がしたかったから。すごく嬉しかったんです。親切にしてもらえて」 当時の葵には味方と言える人たちが増えていたけれど、生徒会に所属してからその自信が日に日に失われていった。葵が役員になったことを疑問視する声は常に聞こえてくる気がしていたし、生徒会の中でだって葵に冷めた視線を送る上級生のほうが多かったのだ。 そんな葵にとって、顔も名前も知らぬ誰かの親切がたまらなく嬉しかった。 「あの日もそうです。櫻先輩には変なところ見せちゃって、大事な指に怪我までさせちゃいました。それでも嫌わずにいてくれたことが、僕にとって大きなことだったんです」 京介や冬耶相手にだって、過去の記憶を蘇らせてパニックになった姿を見られるといつも不安になる。こんなに弱い自分の世話をいつまでも焼かせる罪悪感に苛まれるのだ。自分の体を噛む癖だってそう。 出来ればこれ以上誰かに知られる前に、宮岡のカウンセリングを受けて治したかった。 「だから、僕が全部悪いのになんで葵ちゃんを嫌いになるわけ?意味がわからない」 櫻はそう言いながらキュッと頬を摘んできた。棘のある言い回しだけれど、いつものスキンシップは葵を安心させる。 しばらくそうしてムニムニと頬を弄ってきた指は葵の後頭部にまわり、ゆっくりと引き寄せられる。体を密着させると、櫻が纏う花の香りがより一層強く鼻腔をくすぐってきた。 「連休中に葵ちゃんと二人になれる機会があるなんて思ってなかったから、浮かれてたんだ。みっともないぐらいにね」 己を嘲笑う声の裏に、悲痛な思いが見え隠れする。 今でこそ同じフロアで生活しているし、彼に食事を運ぶ役割を請け負ってからは二人で過ごす時間は圧倒的に増えた。でもあの頃櫻とは放課後の生徒会活動でしか顔を合わせられなかったのは事実。 「だからってそれは葵ちゃんの心の傷を抉っていい理由になるわけない。さっきも言ったけど、本当に後悔してるんだから。これ以上惨めな思いさせないでよ」 「……ごめんなさい」 櫻を困らせるのは葵の本意ではない。だからまずは彼の願いに沿って謝罪を口にする。 「でも」 「まだ何か言うつもり?もう終わりでいいでしょ。本当にこんな時ばっかり頑固っていうか、意地っ張りっていうか」 反論しようとするとすぐさま呆れた顔をされてしまう。 分かっている。どちらかが折れなくては延々と不毛な議論を続けることになることぐらい。それに、そもそも葵は演奏会の話をしに来たのだ。 大好きな櫻の香りが満ちた寝室で、彼の温かい腕に包まれている。疲れ切っている体がそんな状況に置かれれば、眠気に襲われるのも時間の問題だ。早く本題に入らなくては何もかもが半端な結果に終わってしまう。 だから葵は少し思案したあと、彼に伝えておきたい言葉を慎重に選び抜いて自分なりに最大限簡潔に紡ぐことにした。

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