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act.8月虹ワルツ<431>

「ああいう格好、嫌ってわけじゃないと思うんです。多分。うまく言えないんですけど」 「好きじゃないって言ってたじゃん」 「そうなんですけど、でも……思い出すのは辛いことだけじゃない気がしてて」 男らしい体格ではないが、かといって女の子の、それもフリルやレースの付いたとびきり可愛らしい服を自ら進んで着用したいとは思わない。 それにあの日葵が乱れたのは、ああした服を着せるのが好きだった馨の記憶が鮮明に蘇ってきたからだ。 でもカメラを向けられ、馨の思い通りの人形として振る舞い、微笑む。その記憶自体が苦しかったわけではない。むしろ葵にとって馨の愛情を感じられる大切な時間だったと思う。 ただ葵なりに馨の思う通りのいい子であろうとした結果、置き去りにされたことが葵の心をどうしようもなく締め付けるだけ。 「だから、その、せっかく買ってもらったわけだし、いつかは着られたらいいのかなって思ってます」 葵が名乗りをあげなければ、あの高価な服は日の目を見ることなくそのうち処分されてしまう気がする。潔癖だという櫻の性格を考えれば、他の誰かにあげるなんて選択肢もないように思えた。 “いつか”がいつになるかなんて、今の段階では約束出来ない。でも宮岡とのカウンセリングが進めば、過去の記憶を蘇らせても自分の心を制御出来るようになるはずだ。その時が来たら一度ぐらいは、と考えたのだ。 葵が伝えたかったことは言葉に出来た。これでようやく本題に入れる。そう思って、演奏会の話題に触れようとした葵に対し、櫻はこれ以上ないぐらい盛大な溜め息をついてみせた。 「これ、僕は今どういう感情になるのが正解なの?」 「……と、言いますと」 「僕が軽はずみに求めたせいでこうなってるっていう後悔?それとも馬鹿らしいことに挑戦しようとしてる葵ちゃんに呆れてもいい?好きな子が僕の趣味に付き合ってくれようとしてる喜びは感じちゃダメ?」 櫻がどうしてここまで困惑しているのかがよく分からないが、少なくとも葵を怒ってはいないようだ。 「えっと、どれでも大丈夫です」 「分かった。じゃあ今日はもういいや。だからとりあえず一回キスさせて」 一瞬何を言われたのか理解出来なかった。この会話の行き着く先として想像もしなかったことだからだ。 思わず櫻を見上げれば、色っぽい笑みのあとに唇を塞がれた。痺れるような性感を煽るものではない。緩く擦りあわされる優しい口付けの心地良さに自然と瞼を伏せていた。 「やっぱり僕は男なんだなって実感した」 キスの後の感想も葵には突拍子もないものに思えた。櫻はとびきり綺麗だけれど、れっきとした男性だ。そもそも男子校であるこの学園に通っているのだから疑ったこともない。なのになぜそんなことを言うのだろう。 「今日は違うって分かってるのに。好きな子とベッドでキスしてたらそれ以上のことしたくて堪らなくなるんだから」 櫻はまた葵を“好きな子”と表現する。それが少し恥ずかしくて、くすぐったい。

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