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act.8月虹ワルツ<432>

「おいで、葵ちゃん」 葵はもう少し櫻と話していたかったのだが、櫻は体をずらして枕に頭を預ける体勢をとった。そしてすぐ隣の位置をポンと叩いて招いてくる。 「え、寝るんですか?」 「大丈夫、もう過ちは増やしたくないから。本当に寝るだけ、ね?」 「それなら戻ります。櫻先輩、疲れてるだろうし」 演奏会が終わったら泊まる約束はしていたが、今日だとは思っていなかった。会話を終えたら自分の部屋に戻るつもりでいたのだ。 熱を出した原因にもなった夢遊病疑惑もまだ解決していない。幸いあれから一度も妙な行動は起こしていないようだが、特に今夜の櫻には迷惑を掛けるわけにいかなかった。演奏会を終えてやっときちんとした睡眠が取れるのだから。 「それは警戒してるってこと?僕が怖い?」 「どうしてですか?」 「あ、違うのか。じゃあ早くおいで」 焦れたように櫻がもう一度シーツを叩いた。 「でも、櫻先輩に迷惑掛けちゃうかもで」 「いいよ、おねしょしたって許してあげるから」 「なっ……しません!」 葵は真面目に心配しているというのに、櫻はいつもの調子でからかってくる。ムキになって言い返すと声を上げて笑われた。それにつられて怒っていたはずの葵も笑えてきてしまう。 「ほら、もう一度だけ言うよ。ここにおいで、葵ちゃん」 まだ笑いの余韻を残しながら、櫻が手招いてくる。誘われているのは彼の腕の中。あの場所で眠れるのは相当に特別なことなのだと思う。でも本当にいいのだろうか。 迷っていると、櫻がカウントダウンを始める。十から始まり、容赦のないスピードで下がっていく数字に焦って、気が付いたらもう悩む暇もなく飛び込んでいた。 「全く、手が掛かるんだから」 「ごめんなさい」 再び櫻に抱き締められてどうしようもなく嬉しいと感じるのだから、言われるがまま素直に甘えていれば良かったのだと思わされる。 「そういえば僕のピアノが子守唄になってたんだっけ?眠れそう?」 そう問われて、確かに毎晩聞こえていたメロディがないことに寂しさを感じる。でも今は櫻が隣にいる。孤独ではない。 「大丈夫です。でも今度またあの曲を弾いてくれませんか?」 演奏会の舞台で自分の立場を不利な状況に追い込んでまで披露してくれた楽曲。あまりにも驚きすぎて、初めから最後まで集中して聴けたかというとそうではない。だからもう一度、櫻と出会わせてくれた大切な曲を聴かせてほしかった。 「いいよ、また今度ね」 櫻はもう葵をあしらうことはしなかった。あのコートの持ち主は櫻だった。それは紛れもない真実として受け止めていいということなのだろう。 互いに“おやすみ”の挨拶をしたあと、櫻は額にキスを落としてくれた。それを合図に瞼を閉じたけれど、予想に反してすんなり眠気は訪れてくれなかった。 こんな風に櫻と眠るのは初めてだ。彼の香りが満ちた布団に包まるだけで、妙にドキドキしてしまう。それにステージの上で誰よりも美しくピアノを弾きこなす姿や、出会った頃のことを思い返して止まらなくなる。 早く眠らなくては明日に響く。分かっていてもなかなか寝付けない。でもそのおかげで葵は良い体験が出来た。寝かしつけるように葵の背中をトントンと叩いていた櫻が、しばらくするとあのワルツの旋律を口ずさみ出したのだ。 目を伏せ続けていたから、葵はとっくに眠りに落ちていると思ったのかもしれない。天邪鬼な櫻のことだ。葵に聞かせるつもりはなかった気がする。 甘く響く歌声に、いつのまにか涙が頬を伝っていた。 櫻は優しいと言われるのを嫌がるけれど、こんな風に葵をあやしてくれる人が優しくないわけがない。 宣言したとおり、葵は櫻の味方であり続けるつもりだ。彼を理不尽に妬み、蔑む人たちから彼の心を守りたいとも思う。櫻よりもずっと弱い葵がこんなことを言えば、また笑われてしまうだろうけれど。

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