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act.8月虹ワルツ<435>
応答がないのを覚悟で応接室の扉をノックし、しばらく様子を窺ったあとドアノブを捻る。そこには忠司が顔をしかめるのも無理はないと言いたくなる光景が広がっていた。
スーツが皺になることも気にせず、土足のままソファで寝転がる椿。体には丁寧にブランケットまで掛けている。おまけにテーブルには食べ散らかしたスナック菓子や、酎ハイの缶が転がっていた。
「篠田さん、ご自宅でお休みください」
机上のゴミを回収しながら声を掛けても椿は起きる気配がない。それなりの度数がある酒をこれだけ飲んだ後なら無理もないかもしれないが、このままでは明朝清掃にやってきたスタッフを大いに困らせることになる。
「篠田さん」
仕方なく彼の肩を揺さぶろうと手を伸ばして、初めて彼の寝顔を真正面から見下ろした。若い頃の馨によく似た顔立ち。こうして静かに眠っていると、それがより顕著に思えた。
それに彼の目尻から涙が溢れた一筋の跡が残っているのに気が付いてしまった。一体どんな夢を見ているのだろう。
彼が幼い頃葵と交わした約束の話を自然と思い出す。離れ離れになっても、彼はその約束を胸に葵を迎えに行くための準備を整えていた。けれど葵は椿の思いとは裏腹に、西名家で幸せな生活を送り、椿のことを覚えてすらいない。生きがいを失った彼が自暴自棄になるのも分からないではない。
穂高は彼を揺さぶるのをやめ、代わりに空き缶を派手な音を立てて潰すことで目を覚まさせることにした。椿の性格を考えれば、穂高に泣いた痕跡を見られたくないだろうから。
穂高の思惑通り、背後で椿が身じろぎする気配がする。
「……うるせぇな、なんだよ」
「おはようございます」
椿が声を発しても、穂高は彼を振り返らなかった。すると椿は少しの間を置いて、わざとらしいぐらい大きな欠伸をしてみせる。それによる涙だと誤魔化すことにしたようだ。
出会った頃は可愛げのない厄介な存在と感じていたし、葵を傷つける危険人物として認識もしていた。それが完全に薄れたわけではないが、こうして分かりやすい行動を取られるとただ単に不器用で子供っぽいだけの相手と思えてくるのだ。
「運転はなさらないでくださいね。タクシーを呼びますから」
「秋吉さんが送ってくれるんじゃないの?」
“穂高”という呼び名を拒んでからは、律儀に苗字で呼び始めたこともそうだ。椿に自覚があるかは分からないが、穂高を構ってくれる存在として認識しているのだろう。だから穂高を困らせはしても、嫌われないラインを見極めようとしてくる。
それに夢の中で泣いたのは本人も予想外のことだったのだろうが、穂高がこうして迎えに来ることは想定していたはずだ。穂高に叱られたくないのならこんな所で酒盛りなどせず、自宅に帰ればいい。そもそも今日は日曜で、彼は一日自由に過ごせたのだからオフィスに来る必要もない。
穂高が尽くしたい相手は葵ただ一人だというのに、その父親と兄の面倒ばかりを見させられているのは不本意な状況ではある。だがそれが葵を守ることに繋がるなら、致し方ない。
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