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act.8月虹ワルツ<436>

「タクシーの匂い、好きじゃないんだよ。酒飲んでる時に嗅ぐと吐きそうになる」 穂高が馴染みのタクシー会社に連絡しようとしていることを察して、椿は往生際悪くそんなことを言い始めた。 「そういえばご自宅へは歩いても帰れる距離でしたね」 「……は?正気?一時間掛かるんだけど?」 「酔い覚ましにはちょうどいいのではないでしょうか」 あくまで穂高に送り届けさせたいのだろうが、こちらだって椿を必要以上に甘やかすつもりはない。そう言い残して回収したゴミを手に応接室を後にすると、椿は慌てて後をついてきた。 「どうせ近く通るんだし、乗せてってくれたっていいじゃん」 「アルコールの匂いは好きではないので」 椿は渋々ストレートに願望を口にしてきたけれど、穂高は構わずに断りを入れる。社用車ならまだいいけれど、プライベートでも使う自分の車に行儀の悪い酔っ払いを乗せたくはない。 「ケチ」 「何とでも仰ってください」 穂高の心を的確に抉ってくる馨の言動に比べれば、こんな悪態はかすり傷にもならない。穂高の頑なな態度でようやく椿は諦める気になったらしい。女性社員のデスクから拝借したと思しき可愛らしい柄のブランケットを肩に羽織りながら、穂高とは別の方向へと歩き出した。 「篠田さん」 その背中に声を掛けた。 「私に何かお話があったのでは」 車に乗せてくれることを期待したのだと思う。振り返った椿の表情は明るかったが、穂高が核心を突くと途端に気まずそうに顔をしかめた。 「私の思い違いでしたかね。それなら構いません。おやすみなさい」 「あ、いや、待って」 穂高が身を引こうとすると、黙り込んでいた椿が途端に口を開いた。でもやはりその先の言葉はなかなか出てこない。彼の悩みは葵のことと相場は決まっている。 彼は葵が一週間も学校を休んだ理由を何度も聞いてきた。穂高自身、宮岡から詳細を聞き出せていないし、それを馬鹿正直に椿に話すわけもない。だからはぐらかし続けていたが、まだ諦めていないのだろうか。 言いにくそうにする椿の様子を見ながらそんなことを考えていると、彼はようやく腹を括って悩みを打ち明けてきた。 「あの、さ。アンタの友達、葵のカウンセリングしてるだろ?」 馨にバレた今、宮岡との関係を誤魔化す意味はないけれど、穂高は肯定も否定もせずに黙って先を促した。 「施設でのこと、思い出したりしてんのかなって。なんか聞いてない?」 椿の表情を一言で表すとしたら、怯え、かもしれない。振る舞いが子供っぽいだけで決して幼い容姿ではないはずなのに、穂高を見つめる姿は頼るものを失って怯える幼子のように見えた。 「俺が読み聞かせてやった絵本、あいつ、まだ持ってるみたいだからさ」 どうやら椿はまた言いつけを破って葵の様子を見に行ったらしい。冬耶が同行していたせいで昨日は満足に近づけず、店の外から眺めることしか出来なかったというから、不用意に葵が傷つけられずに済んだことに安堵させられる。

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