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act.8月虹ワルツ<437>
「昨日葵が店員に何か渡してんのが見えたから、気になって今日行ってきたんだよね。そしたら店員があの絵本、修理しててさ。このタイミングで修理に出したってことは、なにか思い出したのかもしれないって思って」
椿にとっては葵と共に施設で過ごした思い出の品だからなのだろう。期待するのも無理はない。
けれど、あの絵本はエレナから与えられた宝物。母親には一度だって読み聞かせてもらったことがないというのに、あれは葵がエレナからの愛情を感じられる唯一のものなのだ。ただそれだけ。
一番に読み聞かせてやった自負がある穂高だって、葵の記憶には残っていないのだから。
「……さぁ、私には分かりかねます」
椿からしたら相当なプライドを押し殺して穂高に相談してきたのだと思う。それを悪意を持って踏み躙ったわけではない。こう言うしかないのだ。
穂高は覚悟を決めた上で葵に別れを告げた。けれど、椿はそうではない。彼自身もまだ幼く、母に続けてせっかく出会うことの出来た弟を不意に失うことになった。そんな状況下でも葵との約束を信じて生きてきた彼には、あまりにも残酷な現実だ。受け入れることは容易ではないだろう。
「あーはいはい、またそれね。もういいよ。さよなら」
彼は穂高の返答を機械的で嫌いだと言っていた。だから一気に機嫌を損ね、捲し立てながら帰っていく。
今まで意図的に彼を煽ったことがあるのは認める。けれど、今は彼を傷付けたかったわけではない。むしろ傷付けないためにああ言うしかなかった。結果は同じでも、怒りの矛先が穂高に向くだけで上出来だ。
今の彼では真実を知った時にまた葵に理不尽な怒りをぶつけてしまうだろうから。
秘書室に戻って帰り支度を整えていると、宮岡からメッセージが届いた。人のことは言えないが、彼も大概夜更かしだ。
中を確認すると、そこには葵からカウンセリングを希望する連絡が入ったという共有が記されていた。平日の夜、食事をとりながら実施することになったらしい。いつもは西名家の兄弟がカウンセリングに付き添っていたが、今回は別の“大好きな人”を紹介してくれるのだとも教えてくれた。
穂高はその言葉で、忠司がファイルした人物のうちの誰だろう、と思いを巡らす。葵を大切にしてくれる存在が簡単には絞り込めないほど増えたことも、穂高の心を綻ばせる。
けれど、宮岡が付け加えるように新たに送ってきた言葉は素直に喜べそうもなかった。
“次はアキのことを思い出してくれるかもしれないね”
兆しを見せたことは聞いていた。葵自身が思い出したいと願っているのだとも。でもあの子の記憶の扉を開いたところで、どうなるのだろう。当時葵が寄せてくれていた信頼を裏切り、置き去りにした事実は変わらない。
それに、と穂高は今しがた別れたばかりの椿のことを思う。
椿は穂高に仲間意識のようなものを抱いている気がしている。もしも穂高だけが葵の記憶に蘇ってしまえば、それこそ椿は手が付けられない状態に陥るかもしれない。それが恐ろしかった。
だから穂高は宮岡に懇願する。どうか穂高を思い出すようなヒントは与えないでほしい、と。でも穂高の思いを取り違えた宮岡は“大丈夫”と宥めてくるばかりだった。
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