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act.8月虹ワルツ<439>

それに若葉の記憶だけがあやふやなのではないと分かって妙に安堵もさせられた。母親の自殺に関しては、ショックのあまり何も覚えていないのだと最近書き足された痕跡があったのだ。 寝惚けた状態から意識を覚醒しなかったことも、過去に受けた精神的な傷による障害だと思えば理解はしやすい。 「弟が死んだっつーのは、事故じゃなくて葵チャンが突き落としたんじゃないか?だと。ママに愛される弟に嫉妬して。で、ママは幼い兄弟の悲劇に絶望して自殺した、と」 「有り得なくはない話ですが、もしそうだとしても子供をそこまで追い込んだ親に罪があると思いますけどね」 手帳に書かれた仮説を口にすると、意外にも徹が葵を庇うような発言をした。 「へぇ、お前がそういうこと言うのネ。そんなに葵チャン気に入ったの?」 若葉が茶化すと、いつも通りの冷たい顔で短く否定してくる。 だが、気に入っているのは事実のはずだ。彼が子供に手を出そうとしたことも、ましてそれが男であることも若葉の知る限り初めてだった。そのあとも度々葵に興味を示してきたのだ。今更取り繕ったって遅い。 「あ、そ。じゃあ葵チャン食う時、お前はいらないってことでいーのネ?」 「さすがにトップクライアントの愛孫を抱くのはマズイでしょう。諦めてください」 徹は挑発に乗らないどころか、若葉まで巻き込んで葵から手を引けと言ってきた。 確かに今回の大元の依頼者は藤沢家の当主だと聞いた。若葉は今まであまり関わってはこなかったが、両家はそれなりに太い関係があるらしい。 彼らは若葉たちを“夜者”と呼んで、表向きは処理しづらい問題の解決を依頼してくる。単なる情報収集だけの場合もあれば、今回のように荒っぽい手段を求められることもある。 「葵チャンの保護者は西名の親父なんでショ?それにこれを見なけりゃ葵チャンが藤沢の孫だって分からなかった。なーんにも知らないフリ続けりゃ、別に問題ないって」 「その言い分がまかり通ると思いますか?」 「あいつがチクらなけりゃいいんダロ。つーか、これ見る限り、そもそも葵チャンはパパとも爺さんとも連絡とってないみたいだし?」 それにもしも事が明るみになって責められることがあっても、若葉は構わない。それよりも中途半端に食らったあの体を早く征服したくて堪らなかった。これほど焦らされたのは初めてだ。 「くれぐれも丁重に扱ってください」 「りょーかい。丁重に抱けばいーのネ?結構優しくしてやってるつもりなんだけど」 初めて会った時には徹を使って慣らしてやろうとした。二回目の接触はつい勢いで首を締めてはしまったが、怪我は負わせていない。むしろあの場で抱かなかったことを褒められてもいいぐらいだ。先日の一件でも、潤滑剤代わりに日焼け止めのクリームを使おうとしたのだ。文句を言われる筋合いは全くないと思う。 葵の抱える秘密を知ったからか。それとも徹との会話が引き金か。何にしても、今夜の若葉には葵に会うという新たな目的が生まれた。 試しにメールを入れてみたが、前回同様反応は返ってこない。寝ているのか、それとも意図的に無視をしているのか。どちらでも我慢強いほうではない若葉にとって、面白い状態ではなかった。 「無茶はなさらないでくださいね。何かあればお目付け役の私が真っ先に叱られるんですから」 「お目付け役、ネ」 確かに野良猫を拾うなとか、学校に通えといった若葉にとってはどうでもいい小言はよく言われるけれど、根本的に彼は若葉が拾ったもの。部下という体裁はとらせているが、所有物の一つだ。若葉の意に背くことは許されない。 まだ何か言いたそうな徹とは駐車場で別れ、いつものように寮の裏手に回った。

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