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act.8月虹ワルツ<440>
若葉の来訪をすぐに嗅ぎつけた猫たちが続々と集まり足元にまとわりついてくる。良質な餌を求めて媚びてくる彼らを撫でるこの時間だけが、若葉にとってくつろげる時間だと言える。
生徒会のフロアを見上げると、葵の部屋だけでなく、今夜はすでにどの部屋にも明かりは灯っていなかった。真面目な役員様方は明日に備えて早々に眠りについたのだろう。
あの夜とは違い、ベランダに人影も見えない。となれば窓も鍵が掛かっていると考えたほうがいい。それを破ること自体は不可能ではないが、強化ガラスを破るのは面倒ではあるし、警報システムが作動すれば葵を喰らうどころではなくなる。賢い選択とは言えないだろう。
となれば葵を呼び出したほうが早いだろう。いや、日中学園のどこかで攫ったほうが手間は少ない。
ぼんやりと今後の算段を思案していた若葉は、背後の草陰が揺れたことを察してすぐに気を張り直す。
若葉にコンタクトを取りたがっている冬耶が待ち伏せていたのか。それとも彼の犬になっている幸樹か、はたまた先日殴りつけてやった京介か。
そのいずれかを思い浮かべながら振り返ると、そこには闇夜に溶けるような黒髪の男が居た。想像した誰とも違う。身長はそれなりにあるが、浴衣を纏った体は細身。けれど無駄な肉がないだけで筋肉質なのは一目で分かる。
「なんか用?」
声を掛けたタイミングでちょうど月明かりが彼の顔を照らし、ようやくその正体をはっきりと視界に捉えられた。先日屋上で葵と一緒にいた生徒だ。あの時急所を狙って蹴り上げたつもりだ。けれど彼は怪我をした素振りも見せず涼しげな顔をしてこちらを睨んでくる。その姿が強烈に若葉の興味をそそった。
「アオの部屋、入った?」
想像よりもその声は低かった。抑揚はないが、怒りが込められているのは分かる。
「それ、葵チャンのこと?なんか言ってたの?」
「アンタの匂い、した」
会話は噛み合わないが、葵が若葉の侵入を訴えたわけでないことは理解出来た。若葉が外から忍び込んだと予想して、こうして張り込んでいたことも。再び若葉に痛めつけられることを全く恐れていない姿勢は少々厄介だ。
若葉が立ち上がっても、彼は身じろぎ一つしない。あの時は隙を見せたものの、何らかの心得はあるらしい。若葉が攻撃する構えをとれば、即座に反応できるよう集中していることは伝わってくる。
「次は、殺す」
臆することなく物騒なことを口にもしてきた。単なる脅しではなく本気でやりかねない狂気を感じる。
「今ヤっておけば?次なんて悠長なこと言ってないで」
葵で発散出来なかった欲は暴力でも発散は出来る。それに目の前の男は眼光こそ鋭いが、綺麗な顔立ちをしていた。葵の代わりとして使ってやってもいい。そんな思いも込めて挑発してみたが、意外にも彼はあっさりと身を翻す。
あっという間に消えていく後ろ姿を目で追いながら、若葉は流石に驚嘆の声を上げざるをえなかった。
「すげぇ、走れんのあいつ」
完全にあばらの何本かは折ったつもりでいた。その感覚も確かにあったはずなのに、彼の走るスピードはとても怪我人とは思えない。あの時は全く視界に入れずに終えたが、彼もなかなか面白い。
しかし新しい獲物の候補が増えたのはいいが、今夜は期待していたような狩りは楽しめなさそうだ。それならばここに留まる意味はない。
まだそれほど遠くには行っていなかった徹を呼び戻すと、彼は心底不服そうな顔で迎えにやってきた。
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