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act.8月虹ワルツ<441>

「葵さんにフラれてしまいました?」 「そういやこれ持ったまんまだったなぁって。渡しに行くんダロ?」 主人に対して失礼な物言いだが若葉はそれを咎めることなく受け流し、ポケットに突っ込んだままの手帳を差し出した。業務を終えた時点で簡単な報告は済ませていたが、あの男から回収した物を引き渡す約束もしていた。 「今でなくても構わないものですが」 「あ、そ。じゃいーや」 気のない返事を返しながら後部座席に乗り込むと、徹はあからさまに溜め息をついてみせた。そろそろ一度この態度を改めさせたほうがいい気がする。 ほとんど揺れの感じない車内に寝転がり、若葉は再び使い込まれた手帳のページを開く。走り書きの汚い文字は非常に読みにくいけれど、そこに記された葵の人生には強く惹きつけられた。 両親それぞれから真逆とも言える扱いを受けて育った葵。特に父親からの偏った愛情は、カウンセリングを受けるほど葵の心を傷つけていると考察されていた。性的な虐待を受けていたともある。でも本当にそうなのだろうか。 葵はあの夜、若葉を“パパ”と呼んで縋り付いてきた。恐れ慄いているというよりは、恋しくて堪らないと甘えてくる仕草だった。だから若葉も自分に懐く猫の姿に重ねて可愛いと思えたのだ。 「お願いですから藤沢に睨まれることだけは避けてくださいね。彼らの支援がなくなるのはうちにとって相当な痛手なんですから」 葵を腕に抱いて喉元を撫でてやった感触を思い出していたのがバレたのか、徹はしつこいぐらいに釘を刺してきた。 藤沢家を敵に回すなという言い分は分かるが、彼らだって九夜家と敵対すれば今まで秘密裏に処理を任せてきた事の数々が表に出るリスクを抱えている。どちらが上か下かではない。持ちつ持たれつ、お互い様の関係だと思う。 「むしろさ、葵チャンと仲良くなったら両家の爺共は喜ぶんじゃないの?」 「まさか。表立っての接触は避けてほしいはずです」 「んまぁ、それもそーか」 九夜の苗字と、鬼神の名である夜叉とをもじった“夜者”という呼び名も、暗がりに身を潜めていろという意味が込められているように感じることがある。その生き方に不満はないが、日の光のような色をした髪と瞳を持つ葵には触れてみたい。 「本当に無茶はなさらないでくださいよ。……止めて素直に聞いてくださる御方でないことはよく存じ上げていますが」 真面目に忠告を聞き入れる気がない若葉に、徹が運転席から嫌味をぶつけてくる。ダメだと言われるほどに欲しくなるのだから仕方ない。 「ああいった容姿の方が好みでしたら、似たような方を探します」 「その辺に転がってると思う?葵チャンみたいなの」 提案した側の徹も、若葉の指摘はもっともだと思ったのだろう。ミラー越しに苦笑いするのが見えた。 それに葵の見た目が特別好みというわけでもない。むしろ幼すぎて避けてきたぐらいだ。仮に容姿だけが似た代替品を用意されたとて、食指が動かない自信はある。葵に惹かれるのはそうではなくて……。 再び若葉は葵に触れた夜を思い返す。 “行っちゃやだ” 幼い子供のような口調で帰ろうとする若葉を引き留めてきた葵。あのタイミングでは“パパ”ではなく“赤い人”だと理解は出来ていたようだったが、葵の中できちんと若葉を認識出来ていたかは疑問だ。 次に出会った時葵は若葉を何と呼ぶのだろう。また若葉に誰かを重ねてくるのだろうか。考えるだけでも面白くはない。でもこの感情は単純な怒りとも苛立ちと表現するのは間違いな気がした。

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