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act.9極彩カメリア<35>

「えっと、多分、四歳とか五歳です。幼稚舎に通ってる時に初めて会ったので」 「そう。その初めましてのことは覚えてる?」 宮岡が尋ねると、葵は深めの皿に盛り付けたリゾットを掬う手を止めて思案し始めた。対面に座る遥はその様子を優しく見守っている。メニュー決めの時には葵の食欲と好みを考慮して積極的にアドバイスをしていたが、カウンセリング中は口を出さず傍観者に徹するつもりらしい。 「ママが抱っこしてて、手がとっても小さくて、いっぱい泣いてました」 記憶の欠片を手繰り寄せているからだろう。葵の回答はぎこちないものだったが、そこには弟を可愛く思う気持ちが滲んでいる。 「でも……」 葵は表情を曇らせながら言葉を続けた。母親からは近づくなと叱られたらしい。葵の病気がうつるから、と。幼い子供には残酷すぎる言葉だ。スプーンを持つ手が震え出したのを見て、宮岡はいつものように腕を広げてやる。するとすぐに葵が飛び込んできた。 「触ってみたかった。抱っこもしてみたかったの」 「うん、赤ちゃんって可愛いものね」 葵が顔を寄せる胸元にじんわりと濡れた感触が広がっていく。当時の思いを振り返り、涙が溢れてきたのだろう。 「でもママの宝物だから。壊しちゃダメだから」 「葵くんには壊すつもりなんてなかったでしょう?」 母親から与えられた呪詛が葵にとってどれほど苦しいものだったかは想像に難くない。 葵自身、母親に愛されたくて仕方なかったはずなのに。突然現れた弟が葵の求めていた全てを得られている。その状況はこの子に深い絶望を与えたに違いない。けれどそれでも葵は弟の存在を憎くは思わなかったらしい。泣きながら必死に頷く葵を慰めるように、頭を撫でてやる。 触れることだけでなく、名を呼ぶことすらも禁じられていた。その話は宮岡の胸をますます締め付けた。あの女は葵を苦しめるためだけにどこぞの男と子供を作ったのではないかと穿った見方もしたくなる。実際、シノブの父親の存在が全く浮上しないことを考えると、その説もあながち極端なものではないと思えるのだ。 「名前、呼べるようになりたいんです」 「誰も葵くんを叱ったりしないよ、大丈夫」 弟と同じ名前を持つ親しい先輩がいることは冬耶から聞かされていた。葵がいずれ克服したいと言い出すだろうからと。やはり葵が今回宮岡に救いを求めてきた理由は先輩の存在に起因するものらしい。 「口に出そうとすると、喉とか胸のあたりがギュッて」 「苦しくなっちゃう?」 「呼んじゃダメって怖くなるんです」 葵は自分の首元を押さえながら症状を訴えてきた。 「もしかして一度も名前を呼んだことがない?それとも呼んだ時にすごく叱られちゃったのかな」 葵がこれほどまでに苦しむ理由を探るために宮岡はもう一歩深い部分に足を踏み入れた。母親からの折檻がよほど酷いものだったのかもしれない。宮岡のそんな予想は記憶を手繰り寄せるように目を瞑ってしばらくジッとしていた葵が導いた答えによって覆された。 「一度だけ、呼びました」 「それはシノブくん本人に対して?」 こちらを見上げる葵の顔色が心なしか青白く感じる。目元が涙で赤らんでいるから余計に気掛かりだ。

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