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act.9極彩カメリア<36>

「僕が……呼んだから」 葵の喉がヒュッと嫌な音を立てる。安易に触れてはならない部分に手を掛けてしまったのだろう。 「葵くん、一度やめよう?こっちを向いて」 「だから、落ちちゃった。だから……どうしよう、ごめんなさい」 「葵ちゃん、ストップ」 さすがに遥も席を立ってこちらにやってきた。二人掛かりで葵を落ち着かせようとするが、荒い呼吸はおさまるどことか一層激しくなっていく。 個室とはいえ、謝罪を繰り返し、泣きじゃくる葵の声が響いてしまったのだろう。様子を見にやってきた店員に詫びを入れ、会計を済ませて早々に立ち去ることを約束した。 葵は今までのカウンセリングで涙は溢しながらも落ち着いた様子で過去に向き合えてきた。それを見て完全に油断してしまっていた。どうやら葵にとって弟は母以上に禁忌の存在だったのかもしれない。 遥は過呼吸に陥った葵を抱えてひと足先に店を出る。宮岡はほとんど料理に手を付けなかったことを店員に詫びながら、最後に頼むつもりだったアップルパイを持ち帰り用に包んでもらう。あの子にとって辛いだけの夜で終わらないようにしてやりたかったのだ。 シノブが二階の廊下を伝い歩きで進み、そして階段を落ちたという事故の経緯は聞いていた。葵も一緒に転落したのだという。駆けつけた穂高の話によると、葵はシノブを庇うように抱きかかえていたらしいから必死に守ろうとしたのだろう。それでも小さな葵の体ではクッションになってやれなかった。 不幸な事故でしかない。葵が気に病むことは何一つないように思えた。先ほどの葵の話から察しても、危険を感じた葵がシノブに声を掛けて呼び止めた光景は想像がつく。当時の葵に出来る精一杯のことをしたはずだ。 でも葵はきっと母からの教えと弟の死を強く結びつけてしまっている。名前を呼んだから弟に不幸が訪れたのだと。今に至るまで名前を口に出来ずにいることにも納得がいった。 駐車場に向かうと、セダンの中に二人の姿があった。後部座席で遥が葵を抱え、背中を摩ってやっている。パニックになった葵のあやし方は十分に心得ている様子だった。 しばらく外で様子を窺っていると、葵を後部座席に横たえさせた遥が車を降りてきた。どうやら寝かせることに成功したらしい。 「ずっと不思議だったんです。どうして頑なに弟の名前を呼べないのか」 開口一番遥は宮岡にそう持ち掛けてきた。彼もまた宮岡と同じ推測に至ったようだ。 「シノブが亡くなったあと、母親にその責任を追及されてたって話は聞いたことあったんですけど。葵ちゃん自身に事故の原因を作ったって罪悪感があったから余計に苦しんだんでしょうね」 遥は時折肩を震わせて眠る葵をガラス越しに見つめながら深い溜め息をついた。

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