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act.9極彩カメリア<54>

* * * * * * 演奏会が終わっても、夜になると櫻の奏でる楽器の音が聞こえてくる。さすがに本番直前の練習量には及ばないが、毎日それなりの時間を費やし続けなければいけないらしい。櫻にとっての気晴らしがヴァイオリンの演奏だと聞いて、ますます複雑な思いに駆られた。 今はその気晴らしの時間らしい。葵も机から離れて窓を開け放し、しばらくのあいだ優しい音色に耳を傾けることにした。 目を瞑ると蘇ってくるのは、櫻の背に浮かんだ火傷の痕。もう痛みはないと言われたけれど、その痕は触れるのを躊躇うほど痛々しく見えた。櫻がああした言い方をしたということは、単なる事故ではないのだと思う。そう言われると余計に理由を問うことは出来なかった。 櫻は葵がそうして口を噤んだことを訝しがってきた。葵に踏み込まれたくないことがあるからとも分析された。意識していたわけではないが、それはその通りなのかもしれない。 都古がどうして突然寮暮らしになったのかも尋ねたことはない。遥の母親のことだってそう。気になりはするが、相手から話してくれない以上こちらから踏み込めずにいる。葵がもう少し自分のことを晒け出せるようになったら何かが変わるのだろうか。 成長するきっかけとして一番にカウンセリングが思い浮かんだが、昨夜大きな失敗をしたばかりだ。宮岡は気にしないでいいと言ってくれたけれど、思い出すたびに溜め息が溢れ出てしまう。 その時間を途切れさせたのは、客の来訪を伝えるチャイムの音。このフロアに来られる時点で相手は先輩たちのいずれかに決まっている。葵は迷うことなく扉を開きに向かった。 そこにいたのは奈央だった。すぐに部屋の中に案内したけれど、ソファに並んで座っても奈央は用件を口にしない。 「あの、何かありましたか?」 「ごめんね、急に押しかけて。勉強してたの?」 「はい。今度の期末試験はきっと皆もいつもより頑張るだろうって聞いたんです。だから今のうちからちゃんとしておかないと心配で」 夏休みに入る前に三者面談が控えている。当然直前に行われる期末試験の結果を元に今後の進路を話し合うことになるだろう。今まで平均値であればとか、補習さえ免れればなんてのんびり構えていた生徒も取り組み方を変えるはずだ。以前遥から受けたアドバイスを元に、早めに対策することにしていた。 奈央は葵の話を聞いて納得したように頷いてくれるが、やはり来訪の理由をなかなか話してはくれない。 「お茶飲みますか?二つならカップはあるので。デザインは違いますけど」 「あ、いや……うん、そうだね。今夜は葵くんと一緒にココアが飲みたいなと思って来たんだ」 迷うような素振りは気になるが、奈央の提案は喜ばしいものだった。断る理由がない。唯一の問題は、今葵の部屋にココアパウダーもミルクもないということ。葵がそれを告げると、奈央は必要なものを取りに一度自室に戻ってくれた。 葵は奈央をもてなそうとしたけれど、結局彼がココアを作るのも、それを二つのカップに注ぐのも行ってしまう。せめてキッチンからソファまで運ぶ役割は自分にやらせてほしいと願い出ると、奈央は笑いながら頷いてくれた。 「歓迎会のこと思い出します」 奈央が淹れてくれたココアは、葵が好んで飲むものよりも少しだけ甘さが控えめだ。でも優しい味がする。それを口に含むと、奈央と初めて長い時間を過ごした一年生の時や、今年の歓迎会の夜を自然と思い浮かべてしまう。

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