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act.9極彩カメリア<57>
この部屋に移ってからほとんど使っていないドライヤーのコンセントを繋いで構えられると、ここまできて好意を拒むことのほうが失礼に思えてくる。だから奈央が乾かしやすいよう、スツールに腰を下ろした。
鏡に向き合うのも苦手なことの一つ。自分の姿を視界に入れないよう俯くと、奈央はそれを合図にドライヤーのスイッチを入れた。
奈央は兄弟がいないはずなのに、少なくとも忍よりは葵の髪を乾かす手つきが慣れていた。理由を尋ねると、昔実家で犬を飼っていたらしい。
「習い事ばっかりだったから毎日の散歩はほとんど家の人任せで、きっと寂しい思いをさせちゃってたんだろうね。泥だらけの体でベッドに潜り込んでくるから、よく眠気と闘いながらシャワー浴びさせてたよ」
奈央は笑いながら当時のことを聞かせてくれる。“飼っていた”と表現したからには、もうその犬は居ないのだろう。こうして懐かしみながら話してくれるのだから、奈央にとってもう悲しい話ではないのだとも思う。でも葵から話題を広げることは出来なかった。
「閉めちゃうんですか?」
洗面所を出ると、奈央は葵が開け放したままだった窓を真っ先に閉めに向かった。櫻が奏でる音を聞いていたかったが、また体を冷やして熱を出さないようにと言われれば強く反論は出来ない。
廊下に面した扉の施錠も確認しに行った奈央は、戻ってくると当たり前のようにリビングのソファに持参したブランケットを広げる。
「あれ、奈央さんそこで……?」
「傍に人の気配がするだけで十分安心出来るから」
葵は当然並んで眠るものとばかり思い込んでいたが、振り返ると奈央は確かに一緒のベッドで寝て欲しいとは言わなかった。でも同じ部屋にいるのに離れ離れで眠るのはさすがに寂しすぎる。
クッションを枕代わりに配置してすっかり寝る準備を整えた奈央を前に、どう誘うべきか悩んでいるあいだに“おやすみ”だなんて声も掛けられてしまった。一度は大人しく寝室に戻ったものの、ベッドに入る気にはなれない。
今日は葵の我儘を聞いてもらう日ではない。奈央が安心して眠れるようにサポートするのが目的。頭ではきちんと理解している。ただどうしても割り切れないのだ。
リビングを覗くと、奈央はまだ横にはならず本を読んでいた。
「……奈央さん」
「ん?どうしたの?」
恐る恐る声を掛けると、奈央は手元から視線を外し、こちらを振り向いてくれる。
「このあいだ、失敗しちゃったから……」
「失敗?何の話?」
「奈央さんのことトントンするの」
以前奈央の部屋に泊まった出来事を口にすると、奈央は“あぁ”と思い出したように笑った。あの日も目が覚めたら葵だけがベッドに横になっていて、ソファには奈央が眠った形跡が残っていた。一緒に寝てもらえなかったことを察して湧き上がったのは寂しさだった。
「今日は失敗しない気がします」
はっきりと断られるのが怖くて、一緒に寝たいとは表現出来なかった。奈央は少し悩む素振りを見せた後、栞を挟んだ本をテーブルに置く。
「じゃあお願いしようかな?」
いつも優しく微笑む奈央が、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべている。きっとまた今日も葵のほうが先に眠ると確信しているような顔だ。それに奈央は葵の寝室ではなく、腰掛けていたソファに体を倒してしまう。
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