1602 / 1627

act.9極彩カメリア<59>

* * * * * * 予定よりも早く仕事を片付け、くたびれた体を後部座席のシートに沈ませてしばらく。若葉はこの車の向かう先が自宅マンションの方角だということに気が付いた。当たり前のことではあるが、徹はその当たり前を無視して頑なに学園に向かわせたがる傾向にある。心変わりの理由は、葵があの藤沢家の血筋だと判明したからだろう。 若葉だって馬鹿ではないのだから、九夜家と深い付き合いのあるクライアントとの関係を進んで悪化させたいわけではない。ただ、相手が誰であろうと欲しいと思ったものは必ず手に入れなければ気が済まないだけ。 そもそも出会いが特殊だったせいか、葵のことを他の一般生徒のように暴力で捩じ伏せたり、弱みを握って金を搾り取るような対象としてはみなしていなかった。 先日体育倉庫の裏で偶然鉢合わせた時だって、自分の愛猫を可愛がる時のように柔らかな髪に自然と手が伸びていた。若葉を恐れるどころか、心地よさそうに目を瞑る仕草を素直に可愛いとも感じた。 それに、だ。葵が藤沢家の血を引く人間だと分かったのは、週刊誌の記者が所持していたメモのおかげだ。藤沢家から忠告されたわけでもなければ、学園側に表立って記録があるわけでもない。先日徹に伝えた通り、藤沢家から直接釘を刺されぬ限りは、何も知らぬフリを貫いておきたい。 「寮に向かえ」 短い指示を送ると、徹は面倒そうな顔で視線だけをミラー越しに寄越してきた。 「もうお休みになられているのでは?」 「さぁネ」 まだ日付が変わる前だけれど、葵の幼さを考えればすでに布団に入っていてもおかしくないと思わされる。でも眠っていたら起こせばいいだけ。何の支障もない。 「和歌のお返事が来て初めて忍び込むルールだったと思いますよ」 「ハァ?何が?」 「平安貴族の夜這いですよ。和歌のやりとりを経て仲を深めた女の家に男が忍び込むんです。確か三晩連続で通うと結婚が成立するとかなんとか」 「へぇ、お前に学あるの意外だわ」 昔の風習を引き合いに出してのからかいに対して、怒りよりも驚きのほうが勝った。徹はやたらと自分の後悔を理由に若葉を登校させたがるから、まともに就学した経験がないのだと思い込んでいた。 「試験のための知識より、そういう小話のほうがやけに記憶に残りません?」 「どっちも興味ないネ」 共感を求められても、頷いてやることは出来なかった。記憶のある限り、教室で同級生と大人しく並んで座って学習した記憶はない。徹だってそれはもちろん知っているはずなのに、随分諦めが悪い。 「で、恋文のお返事は来たんですか?」 投げやりな返事に気を悪くしたのか、徹はあくまで風習を引き合いに出す形で若葉の痛いところを突いてくる。 葵の連絡先を手に入れてから何度かメールを送っているものの、返事が来たことは一度もない。体育倉庫裏で偶然出会った時にその理由を尋ねても、とぼけた回答をするばかりだった。徹にその話をした覚えはないが、大方の想像はついているのだろう。 若葉からの接触を拒む意図ならば理解は出来る。でも葵は冬耶に言いつけもせず、若葉と出会っても会話を試みようとしてくるところがどうにも解せない。一体何を考えているのか。 言葉で返事をする代わりに運転席のシートを蹴り飛ばせば、ようやく徹は学園の方向へとハンドルを切った。

ともだちにシェアしよう!