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act.9極彩カメリア<73>
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以前この場所を訪れた時は園庭ではしゃぐ小さな子供たちの声が賑やかだったけれど、朝から降り続ける雨のせいでフェンスの向こうには誰の姿も見えない。どこか物寂しい気分に襲われていると、トンと肩が叩かれて意識が引き戻される。手の主は遥だ。
彼が視線で促した先を辿ると、そこには玄関から顔を出す女性の姿があった。彼女はこの養護施設の長であり、三週間前に椿との仲介役を担ってくれた存在だ。
普段から下の名前でしか呼ばれていないからという理由で、前回面会を申し出た時は“久美子”という名しか聞けていない。彼女の身につけるエプロンに下げられたバッチにも、丸っこい字体で下の名だけが記されている。
「またお邪魔してすみません。昨夜お伝えした通り篠田椿さんと葵のことについてお話を伺いたくて」
「椿くんから聞いたけど、あなたが本当にあの子の……?」
「ええ、葵の兄です」
冬耶が言い切ると久美子は目尻を下げて小さく微笑み、施設の中へと通してくれた。だが玄関で来客用のスリッパを出したところでその動きをぴたりと止めてしまう。
「ごめんなさい、このあいだも窮屈な思いさせちゃったのに。大きいのを買っておこうとは思ったのよ?でもつい忘れちゃって」
以前の訪問で冬耶の足がスリッパからはみ出ていたのを気にしてくれていたのだろう。緊張感を持って臨んでいたはずが、申し訳なさそうにこちらを見上げる久美子の調子に絆されて思わず笑ってしまっていた。
「いえ、お構いなく。なんならそのままでも」
「ダメよ。そこら中にブロックやらお菓子の屑が落ちてるんだから、踏んだら怪我しちゃうわ」
普段から子供と接しているせいか。それとも久美子ぐらいの年齢の大人にとっては、冬耶たちなどまだまだ子供の域なのか。まるで子供を叱るように諭され、隣に並ぶ遥までも小さく吹き出していた。
通された応接室の椅子に座るなり、久美子はお茶を淹れてくると言って慌ただしく部屋を飛び出していく。その足音が小さくなるのを見計らい、遥は席を立って室内を物色し始めた。彼が棚に並んだ古ぼけた絵本の一冊を手に取りパラパラとページを捲っているあいだ、冬耶は携帯を取り出して今の時刻を確認する。学園ではちょうど昼休みに入ったところだ。
奈央からの報告では、昨夜葵はうなされることもなくよく眠れていたらしい。朝食もきちんと食べられたと聞いて随分安心させられた。その調子ならきっと今も楽しく過ごせていることだろう。
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