1620 / 1627

act.9極彩カメリア<77>

施設を出てもまだ雨足は弱まっていなかった。それどころか空全体を覆う雲の厚さが心なしか増したような気さえする。 「冬耶が“葵”って呼ぶの、なかなかレアだったな。どこでも“あーちゃん”呼びを貫いてるのに」 久美子の見送りを受けて施設を出るなり、遥はそう言って笑いかけてくる。幼い葵と、そして椿の思い出話を聞いたあと真っ先に出る感想では決してないはずだが、彼はそういう性格だ。 「やっぱりもう一度篠田さんとちゃんと話したいな」 冬耶の恋心を刺激しようと企んでいるに違いない遥のからかいには乗らず、冬耶は今の率直な気持ちを口にした。無視をされたにも関わらず、遥は己の髪色に似た濃紺の傘を傾げて呑気に空模様を確認し始める。ただ、その横顔はどこか複雑な想いを抱えているようにも感じられた。 久美子はあれから覚えている限りのことを教えてくれた。 個室に隔離された葵に会いに、職員の目を盗んで何度も忍び込んだこと。葵が唯一持参した絵本を繰り返し読み聞かせてやっていたこと。葵の容姿や声が出せないことをからかう子達と大喧嘩したこと。 全てのエピソードが椿から葵への愛情が感じられるものだった。それに、葵も椿の訪問を待つような仕草を見せたり、絵本を差し出して読んでほしいとねだったりもしていたという。 葵の口からは施設での出来事が語られたことは今まで一度もないから、椿のことも何一つ覚えていない可能性を覚悟していたが、記憶の欠片が残っている希望が得られた。椿が葵へのアプローチ方法を変え、当時のように接してくれたらこの状況を打破できるかもしれない。そのためにも、やはり椿と会話するのは避けられないと感じる。 「でも今最悪の状態じゃなかった?俺が行こうか?」 「うーん、はるちゃんとも会話したがらないんじゃないかな」 おそらく椿は葵の交友関係をそれなりに把握しているはずだ。遥の存在も認知していると考えてまず間違いないだろう。西名家側の人間である遥に対しても、敵意を剥き出しにすると考えたほうがいい。 「お兄ちゃん相手よりは落ち着いて話してくれるかもよ。試してみる価値はあると思うけど」 「うん、もちろん無駄とは言わない。俺みたいに感情的にならずに話せるだろうし」 冬耶だって椿と会話する際には極力平常心を保とうと試みはした。けれど頑なな椿の態度に触発され、挑発するような台詞を吐いてしまったことは悔やんでいる。 「さすがにそろそろ戻らないといけないし、出来ることはやっておきたいから。よろしく」 駐車場に到着し、運転席に潜り込もうとした冬耶とは違い、遥は傘を畳まず、車とは距離を置き、別れを告げるように手を振ってきた。 「え、乗ってかないの?」 「うん、ごめん。呼び出し食らっちゃったから」 「もしかして巴さん?」 冬耶の知る限り、遥を好きに呼びつけられる存在など滅多にいない。一番に思いついた相手の名を口にすれば、遥は頷く代わりに苦笑いを返してきた。 待ち合わせ場所近くまで送ると提案したが、遥は早く大学に行けとつれないことを言って去って行ってしまった。 遥の消えた方角に視線を向けたまま、冬耶は車のハンドルに頭を凭れかける。頭の中では久美子から聞いた話がぐるぐると回り続けていた。

ともだちにシェアしよう!