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act.9極彩カメリア<88>
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六月に入り、日が長くなってきたことを実感していたものの、今日は生憎の雨。普段ならまだ太陽が沈みきる前の時間だというのに、奈央が職員室を出る頃には空はすっかり鈍色に染まっていた。
人気がない校舎は窓の外の雨音さえ伝わるほど静かだ。特段怖がりの部類ではないはずだが、明かりが点いていても薄暗く感じる廊下や、己の足音しか聞こえない状況は不気味だと思う。
つい沈んでしまいそうな奈央の心を留めるのは、葵から届いたメッセージ。生徒会室で別れた時には、遅くなるかもしれないからと先に夕食をとるよう勧めていたものの、葵は帰りを待つと連絡をくれていた。
“奈央さんと一緒がいい”
きっと誰が相手でも葵はこんな言葉を掛けてくれる。それが分かっていても、自然と口元が綻んでしまう。
それに今は遥から任務を課されている。葵の部屋に忍び込み、その体を弄った人物の特定。友人たちを疑いたくはないが、他の可能性を提示出来なければ納得が出来ないという遥の思いも理解は出来る。だから解決するまでは極力葵の傍に居て守ってやらなくてはならない。
一刻も早く帰ろう。その一心で校舎を出ようとした奈央を困惑させる事態が起こった。特別棟から移動し、校舎に入る際に確かに傘立てに置いたはずの傘が忽然と姿を消しているのだ。
奈央が愛用している傘は、真鍮の玉留と絹のタッセルが付いたもの。あまり人と被らないデザインのおかげで取り違えが起きたことはない。それに急な雨でもないのだから、傘がなくて困った生徒が思わず取って行ってしまった可能性も低いように思う。
そもそも、寮や校舎の傘立てには共用の傘が設置されている。去年の冬、葵が急な雨に降られて風邪を引いたのをきっかけに、冬耶と遥が手配したのだ。生徒たちは彼らの過保護さが理由とはつゆほども思わず、卒業直前まで学園のために働く二人を称賛していた姿には何とも言えない感情が浮かんだ覚えがある。
ただ、今はその共用の傘すら傘立てに一本も残っていない。そんなことが有り得るだろうか。
この不可解な状況を受け入れたわけではないが、悩んでいても仕方がない。職員室に戻り、残っている教員に相談することが今の奈央に出来る最善の選択だろう。
そう考え直して身を翻した時だった。
「奈央様」
廊下の柱から顔を出したのは奈央のファンを名乗る未里。以前は事あるごとに媚びるような声音で名を呼んできたけれど、彼とこうして向き合うのは随分久しぶりのように感じる。
「遅くまでお疲れ様です。まだお仕事残ってるんですか?未里に手伝えることでしたら何でも言ってください」
そういえば連休中も彼は奈央の手伝いを申し出てくれた。生徒会の地味な仕事を軽んじる言動が気になりはしたが、協力したいという気持ちは奈央への純粋な好意なのだと思うと無碍にはしづらい。
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