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Meine Stimme erreicht nicht
走って走って、森を駆け抜ける。
勢いのままにドアを開け、キッチンに立つヨハネスに体当たりするように飛びついた。
「わっ、と──」
嬉しくて、息が整わないまま、ヨハネスの腰にしがみついて、顔を見上げる。
「こら、危ないだろイヴァン」
ヨハネスの、落ち着いた、低い声。
それを聞いてようやく、僕はハッとした。
──その声、まるで女の子とシているみたい。
──お前の存在価値は歌だけだ。喋るな。
──愛らしい声だ、もっと鳴いて……。
貴族の女と、指揮の先生と、司祭様の声。
ぼんやりとした肌色と、赤い唇の色。
シーツの中で溺れて、血の滲むまで汚れて。
僕の声は、
僕は、
普通じゃ、ない。
「何があったんだ、そんなに慌てて」
寝起きで掠れていてもなお、腹の底をくすぐるような、豊かな響き。ヨハネスの──大人の男の声。
例え取り戻したとして、僕の声は、何になるだろう。歌う時は持て囃されても、喋る時に向けられたのは、大抵が怪訝な顔だ。
気持ち悪いと、思われたら。
嫌われてしまったら。
「……イヴァン?」
困ったように笑いながら、ヨハネスが僕の背を叩いた。伺うように首を傾げ、僕の顔を覗き込む。
思わず、その瞳の中を、必死で探ろうとしてしまう。笑みを含んで、混乱したような、少し心配そうな、ヨハネスの緑の目。
《……ぼくの、こえ、》
「え?」
やっぱり、怖くて。
声は、出なかった。
あんなに高揚していた気持ちが、一気に萎れていくのが分かる。
「すまない、もう一度言ってくれるか?」
震えた僕の唇は、うまく読めなかったみたいで、ヨハネスが聞き返す。顔を伏せて、呼吸を整えて。無理矢理に口角を上げてみせる。
《……わすれちゃった》
「──何を?」
《すっごくいいこと、おもいだしたけど、わすれた》
ごまかして、笑う。下手くそな嘘。
ヨハネスは一瞬、真っ直ぐ合わせた目に少し、悲しそうな色を見せた。
「そうか、」
力強く、抱きしめて頭を撫でてくれる。
この暖かさは、声の出ない僕に、与えられたもの。
「思い出したら、教えてくれるな?」
宥めるように、ポンポンと叩かれる頭。ヨハネスの肩に顔を埋めて、僕はひとつ頷く。
声が戻ったら、この温もりを手放さないといけないのだろうか。
僕は、いつまで──ここにいられるのだろうか。
◆
静かな朝食の後、イヴァンはまた森へ出掛けると言った。木の実を摘む籠と、薪を載せる背負子 を持ち、普段と同じ笑顔で家を出て行く。
「…………」
朝、散歩から駆けて帰って来たイヴァンは、いつもと様子が違った。
いつになくはしゃいで、頬を染めて、目を合わせたのに。不意に表情が翳って、懇願するような、もどかしそうな色を、瞳に灯した。
胸にわだかまる不安に、無理に蓋をしようとしている自分に気付く。あと一歩、声なきイヴァンの心の中まで、踏み込むのが怖い。
思わずため息が漏れる。
今日は一つ、憂鬱な用事を控えていた。
森に消えたイヴァンと、入れ違うように戸を叩く音。現れた姿に、また漏れるのはため息。
「──まあ、人の顔をご覧になって、最初にため息なんて失礼では?」
「……わざわざ山奥までご足労頂いた辛苦を思うとつい、な。ようこそ──エミーリア」
生真面目な彼女の眉が、俺の皮肉にくっと釣り上がる。説教じみたその口が開く前に、背を向けて家へ招き入れた。
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