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Bin ich allein
遠くから聞こえる牧歌。
歌う少年の声は、線の細い、しかししっかりと低い、男の声。歌は途切れ途切れに、牧羊犬を狩り立てる呼び声に変わって、遠ざかって行く。
ヨハネスは今日、家で仕事をすると言い、難しそうな本を数冊抱えていた。僕は薪を拾ってくると言って、また森へと足を向ける。
時間をかけて集めた、抱えきれない薪を、背負子 に縛って地面に下ろした。
歩き疲れた足を小川の水に浸し、か細く、雑音が混じる声で、そっと歌を歌う。
「愛しい人よ、信じておくれ、
君に会えず、恋い焦がれる日々──」
南の国の、愛の歌。
小川は、その小ささからはとても想像出来ないくらい大きな音を立てて、僕の声をかき消した。
──僕に、話す資格などあるものか。
赦 されたのは、歌か──醜く喘ぐ鳴き声。
青と黄色の閃光のようなカワセミが、水面の上を滑るように飛んでいく。
目で追った向こう岸に、赤く実った木苺を見つけて、足首ほどの浅瀬の中に立ち上がった。
思いのほか、流れは強く僕の両足を押し、踏み出すたびに水飛沫が服を濡らす。
何もかもが、惨めな気持ちにさせるようだった。
上着の裾を絞って、口を噤 む。慎重に川を渡り、籠に半分ほど木苺を摘んで、また帰った。
今日はもう、戻ろう。
沈んだ胸の内は、そう簡単に浮き立つはずもなかった。
◆
この世界にまた一人、身を投げ出す日が来るとしたら、それは出来るだけ早い方がいい。
心の準備など、どうせ出来ない。
「それで、ご結婚のことは──」
「ああ、考えてる。だから──」
ドアノブを握ってまさに開けようとした時だった。
女性の声と、苛立ったようなヨハネスの声。
音を立てないように、ノブから手を離す。後退ると、木苺の入った籠に足が当たる。
結婚。
扉の隔 たりよりもずっと遠く、世界が離れて行く気がした。
「いい加減、真面目に──」
「そんなにして欲しいなら──」
足が、自分のものじゃないみたいに重い。
無理矢理逃げるように、また一歩退くと。
「……っ!」
アプローチの石段を踏み外して、ぐらっと視界が回る。肩を強 かに打って、思わず身を縮めた。焦ってドアを見上げてみるが、中の二人が気付いた様子はない。
散らばった木苺を、静かに拾い集めた。いくつか潰れて、血の跡のように広がる。
先に、井戸で服を洗おう。
水に濡れ、土に転がり、散々な汚れ様だ。
考えることから目を背けて、また逃げようとする自分が嫌になった。
でも、それ以外にどうすることができただろう。
立ち上がろうとするが、うまく足に力が入らない。
倒れた時に、捻ったようだった。気付いた瞬間から痛みを発するそれに、余計に気が滅入る。
──何してるんだろう、僕。
自嘲の笑みが零れる。
足を引きずって、裏手の井戸へ向かった。
汲んだ水を頭からかぶって、井戸に背を預けて座り込む。
「…………」
どうして、今まで考えもしなかったんだろう。
寄宿舎育ちの僕と違って、普通ならば。
家族がいて、恋人だって、いるはずだ。
結婚だって、してもおかしくない。
どうして、こんな気持ちになるんだろう。
胸が、じくじくと痛かった。
転んで、怪我をして、心細くなったんだろうか。
ヨハネスの結婚を、祝う言葉が出てこない。
僕は、わがままなんだろうか。
ずっと二人で、二人だけで、一緒にいられると思っていたなんて。
《愛しいひとよ、ゆるしておくれ……》
唇に、声なき歌が浮かんで来る。
ああ、そうだったのか。
僕は──ヨハネスが、好きなんだ。
突然に、色々な感情が噴き出すように込み上げてきて、肌が粟立つ。苦しくて、膝を抱えた。
愛しい。愛しくて、たまらない。
頭を撫でる掌も、優しい緑の瞳も、落ち着いた声も、全部、僕の物だったら。
でも、叶わない。手を伸ばせない。
ヨハネスと、ずっと一緒にはいられない。
欲しい。何よりも。だけど彼は──
気付いた途端に痛み出す傷のような、残酷に胸を抉る感情に、ただ座り込んだまま動けなかった。
「もしも、僕が小鳥なら、」
口をついて出るのは、濁った声で。
ひどく、掠れて醜い歌。
「そして翼が、あったなら、」
こんな時、普通ならどうするのだろう。
僕は、歌しか知らない。
歌でも、どうにもなりそうもない。
「君の所に、飛んで、行けるのに。」
隠さなければならない思いを、両の手に携えて。
「だけど、それは、叶わない。」
ただどうしようもなく、惨めに歌を歌う。
「叶わないから、僕は、」
諦めるのは、慣れていたはずだった。
大抵の幸せは、手に入らない物だった。
どうして、忘れていたんだろう。
僕は、普通じゃないのだから。
「いつまでも、ここに、独り。」
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