8 / 9

Jeder ist seines Glückes Schmied

 イヴァンは、井戸の陰に座り込んでいた。  体を縮こませて、頭を膝に埋めるようにして、小さくなっている。投げ出された手の中に、赤い木苺を二粒、包むように力なく乗せていた。  細い歌声が、震えて、小さく聴こえる。  美しい、少年のソプラノが、耳をくすぐる。 「もしも……僕が、小鳥だったなら……」  声よりも吐息が多い、揺れて掠れた音。  泣いているのかと思った。 「そして翼が、あったなら……」  遠く離れた恋人を想う歌。 「君の所へ……飛んでいける、のに……」  ここを出て行きたいと、そう言われた気分だった。イヴァンは、誰を想って歌うのだろう。  チリッとした痛みが、胸を刺した。火花が走るような、鋭い感覚。火がついたように、醜い思いが黒く燃え立つのが分かった。  ああ、この感情の名前を、俺は知っている。 ◆ 「──ここから、飛び立ちたいか?」  静かに、声が届く。  息を詰めて、顔を上げる。  腕を組んで、家の壁にもたれて、ヨハネスが、立っていた。 「俺は、お前を閉じ込める籠だったのか?」  苛立ち、怒り、悲しみ、様々な色が、複雑に瞳の中で燃えていた。その壮絶さに気圧されて、たちまち僕の声は、つっかえたように喉に貼り付いて出てこなくなった。 《ちがう、ちがう……!》  はくはくと、口唇で紡ぐ言葉を、ヨハネスは聞かなかった。炎を灯した瞳は、ずっと伏せられたまま、こちらを見る事はない。  会話の(すべ)を拒絶され、断たれて。  それは、息が止まるほどの絶望だった。  庭を立ち去る背中を追って立ち上がるけれど、挫いた足に力が入らず、(もつ)れて草に倒れる。  ヨハネスが振り向くことは、なかった。 「……っ、……!」  動かない足を二度、拳で叩く。  痛かった。足よりも何よりも、胸が。  ぼたぼたと、やけに大きな音を立てて、涙が落ちた。大きく、息を吸い込んでも、吐く息に声は伴わない。喉に、爪を立てる。  伝わらない言葉に、出ない声に、苛立って、悔しくて、もどかしいと思った。声が出なくなって、そんなことを思うのは初めてだった。  僕の言葉は、今まで、ヨハネスの瞳があって初めて、受け入れられていたと気付く。  どんな言葉でも、両手を広げて全て受け止めてくれるから、目を合わせて待っていてくれるから、初めて届くものだった。僕は今まで、自分の言葉を伝える(すべ)を、全部ヨハネスに委ねて甘えていたんだ。 「いつか、お前の声が聴きたい」  微笑んだ彼に、聴かせられなかった言葉。  今度は僕が、届けなければ。  涙を拭って、顔を上げて、這い(つくば)るようにして、息を吸い込んだ。 ◆ 「ここから、飛び立ちたいか?」  思った以上に、冷たい声が出た。  泣きそうなグレーの瞳を上げて、口を開くイヴァン。  自分で訊いておきながら、その答えを知りたくなくて、俺はイヴァンから目を逸らし背を向けた。  息を呑む音がする。  吸って、吐いて、何かを言おうとしている音がする。  追い(すが)る音がする。  声にならない声が、叫びのような吐息が、背中にぶつかって、落ちる。  聴こえていた。聴こえない振りをした。  イヴァンを待つ誰かがいることを、イヴァンが求める誰かがいることを、受け止められない自分の心の狭さ。  ただ、気に入らないと怒りを投げつけて、自分はその場で動かずに地団駄を踏んでいる。  この気持ちは、昔から進歩のない、嫉妬心。  姉たちが持っていた、純粋に親の愛を信じられる環境が羨ましくて。遠くから眺めては、近づくこともせず、指差してずるいと泣いた。  いつだって、欲しいものに手を伸ばすことを、恐れているのは俺だ。それでいつも、手に入れられないのは──手に入れることを諦めているのは、俺だ。  欲しいもの──  ああ、そうだったのか。  俺は、イヴァンが、欲しい。そうだ。  そして、また、失うのか……? 「────」  聴こえたそれに、立ち止まる。 「……ヨ……ハ、ネ……ス、」  今度は、よりはっきりと。  ゆっくりと、声の方へ振り向く。  真っ直ぐに、俺を呼ぶ声。  目が合えば笑むように、唇が動いて。  イヴァンの涙を見たのは、最初に会った日以来だった。

ともだちにシェアしよう!