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翌朝(櫻×葵)3

「あの……ごはん、食べてくれてありがとうございました」 「それ、僕がお礼言うことでしょ。用意してくれて、ありがとう。紅茶も美味しかったよ」 時折こんな風にストレートに褒めてくれるとそれだけで堪らなく嬉しくなってしまう。彼の友人達からは、それこそ櫻の思うツボだと注意されるのだが、優しく髪を撫でられご褒美にキスを貰えるだけで幸せだ。 だが、櫻は柔らかな表情を一変させ、どこか難しい顔をし始めた。普段考え事をする時には自身の髪をくるくると弄る癖があるが、今の彼が弄る対象は葵の両手を結ぶリボン。 「どうかしましたか?」 何か気分を害すことを言ってしまっただろうか。一気に不安になった葵が尋ねるが、櫻の表情は変わらない。 「……葵ちゃんさ、僕が教えた以外で何か特別なことしてる?」 「何の話ですか?」 唐突な問いについていけない葵に櫻はベッドサイドに置いたティーカップを指してみせた。紅茶の淹れ方を指導してくれたのは櫻で、彼以外の教えを請うたことはない。櫻好みでないと意味がないからだ。否定するとますます櫻の顔が難しくなった。 「なんでだろ?葵ちゃんの淹れる紅茶じゃないと美味しく感じないんだよね」 とんでもない殺し文句を言われている気がするのだが、櫻本人は珍しく葵を苛めている素振りはない。純粋な疑問なのだろう。 「葵ちゃん、今度から紅茶係として来る?」 また突拍子もない問いかけだ。でも、葵にとっては願ってもないことだった。あと数日したらまた櫻はどこかに行ってしまう。今度はそれほど長くないと言うが、それでも葵にとっては寂しくてたまらない。 「一緒に行ってもいいんですか?お邪魔じゃないですか?」 「……あれ、嫌じゃないの?皆と会えなくなるんだよ?」 前のめりで食いついてしまった葵に櫻は少し意外そうな顔をした。櫻にとってはただの軽口のつもりだったのだろう。 確かに櫻と共に旅に出れば、今まで近くにいた家族にも友人達にも簡単には会えない。平気かと言われれば答えはノーだが、櫻から離れたくない気持ちのほうがよほど強い。 「櫻さんと一緒がいいです、もっと一緒に居たいです」 「日中は構ってあげられないし、多分ホテルに閉じ込めとくよ?それに公演中はイライラすることも多いし、葵ちゃんに当たるかも。それでもいいの?」 「……でも、夜は一緒、ですよね?」 脅し文句を並べられても、彼と共に眠れることのほうが葵にとっては魅力的だ。 「一度連れてったら、もう葵ちゃんが居なくちゃダメになりそう」 葵が引く気配を見せないと、櫻は少し頼りなげに笑ってみせた。提案したくせに嫌がる理由はそれらしい。 「ますます逃がせなくなっちゃうな。ごめんね」 チュッと音を立ててキスした櫻は、逃がさないと強く主張するように葵の腕を繋ぐリボンを強く引いて抱き寄せてきた。余裕のある口調だが、ライトブラウンの瞳が寂しげに揺れている。 「ずっと傍に居させてください」 強がりで意地っ張りな先輩が何を恐れているか葵は知っている。彼が安心出来るならこうして繋いでくれて構わない。連れ回してくれても良い。 葵からもその気持ちを伝えるようにキスを贈れば櫻にいつもの笑みが浮かんだ。

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