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バレンタイン記念(冬耶・遥)
室内に広がるバニラとチョコレートの香り。甘ったるい空間の中心にあるのは、長い髪を一つに括り手際良く調理を進めていく友人、遥の姿。
出会った時は父親の作った菓子を配るだけだった彼が、いつのまにか趣味の域を超え、プロ顔負けの腕前を振る舞えるようになってしまった。
寮に備え付けられていた学生向けの簡易キッチンでは不満だったようで、着々と改造を重ね、今では本格的なオーブンまで導入されている。
「原状回復、大変そうだな」
「冬耶に言われたくないよ。俺はほら、それなりに荷造り始めてるから」
確かにこの部屋の隅には段ボールがいくつか積み重なっている。一ヶ月後に卒業を控え、遥のほうは寮を出て行く準備を少しずつ進めているらしい。
指摘を受けた通り、冬耶の部屋はまだ手付かずの状態。卒業までは拠点を寮に置き続けるつもりだから、ギリギリまで動くつもりはない。それが表向きの言い訳。
「居なくなるんだって、感じさせたほうがいいと思うよ」
親友には何もかもお見通しらしい。ただでさえ卒業が近づくなかで日に日に寂しさを募らせて行く様子の葵を、必要以上に追い詰めたくない。それが荷造りを先延ばしにしている大きな理由だった。
遥の言い分も分かる。いきなりあの部屋がガランとした空室になるよりは、段階を追って荷物が減って行く様を見せていったほうがダメージが少ないかもしれない。でも遥と違って、冬耶はいつだって会える距離に居続ける。妙に“別れ”の意識を植え付けさせたくはなかった。
「俺は居なくならないから。あーちゃんが呼んでくれたらいつだって会いにくるよ」
「“呼んでくれたら”な」
あえてその部分を繰り返すからには、遥にも予想がついているのだろう。葵はきっと卒業した冬耶に救いを求めるような真似はしない。とびきり甘えん坊なくせに、甘えるのが下手なのだ。
葵の傍にはもう一人の弟、京介がついている。それに新たに都古という理解者も増えた。生徒会にも葵を大切にしようとするメンバーが居る。過度な心配はしていないが、まだ葵の心は不安定な部分も多い。せめてもう少しだけ、葵の成長を見守ってやりたかったと思う。
「……あれ?もう終わり?焼かないの?」
考えている間に、遥は混ぜ終わった生地を冷蔵庫に仕舞い、結んでいた髪を解いてしまった。彼の作業が終わった合図だ。
「一晩寝かせて、明日焼く。で、焼き上がったやつをもう一晩寝かせる。つまり、完成はまだ先。残念だったな」
出来立てを少しだけ拝借しようとしていたことは見透かされていたようだ。今になって種明かしをするあたり、この友人は少々意地が悪い。
「葵ちゃんからのリクエストって言っただろ。早いと思わなかったのか?」
確かにバレンタインまで二日あることには疑問を感じたが、試作品作りだと解釈したのだ。葵好みの味に調整するためには手間を惜しまない遥のことだから、特段おかしな話だとは思わなかった。
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