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あじさい(京介×葵)3

登園してきた園児たちがはしゃぎ回る教室の中で、葵はいつも通り隅っこで一人静かに絵本を読んでいた。騒がしい空間で葵だけが別の世界にいるように見える。室内だというのに、頑なに帽子を外したがらないところも異質さを際立たせているのかもしれない。 飽きもせず同じ物語ばかりを読む葵。もうストーリーなんて頭に入っているはずなのに、文字を目で追い、イラストをしっかりと焼き付けてから、次のページに進む丁寧な作業。 無理やり中断させてもいいことがないのは学習済み。京介は寄り添うように座り、葵が最後のページを捲る瞬間を待ち続けた。 「おかえり、葵」 ようやく森の動物たちが全員集合するフィナーレが訪れる。そのタイミングを見計らい、京介は声を掛けた。すぐ隣に居たというのに、葵は初めて京介の存在に気が付いたようにぴくりと肩を揺らす。 「……ま」 「んー?」 「ただい、ま」 クラスメイト相手にはロクに口がきけない葵も、京介には挨拶を返してくれる。笑顔と呼ぶにはささやかだけれど、柔らかい表情を見せるようにもなった。その度に胸の奥がギュッと苦しくなる不思議な感覚に陥る。 葵は絵本を閉じたものの、京介をじっと見つめるだけで何も言わない。今日が何の日かは以前から伝えてきたつもりなのだが、葵から自発的に祝ってもらうのは難しいのだろう。 「俺、誕生日なんだけど」 拗ねたような口調で訴えても、葵はぼんやりした顔のまま。誕生日が何かも教えたはずなのに、この分では忘れてしまったのか、もしくは初めから理解できていなかったのか。 「俺が生まれた日。誕生日の人にはおめでとうって言うんだよ」 「……なんで?」 「なんでって言われても」 今朝両親からは“生まれてきてくれてありがとう”ときつく抱きしめられた。兄には大きな声で”おめでとう”と叫ばれた。だからそれが普通のことなのだと思っていた。京介も誰かが誕生日を迎えたら、ごく自然に口にする言葉だ。 けれど、葵は心底不思議そうに首を傾げる。誕生日が何かすらもピンときていない葵は、きちんと祝われたこともないのかもしれない。 「なぁお前、誕生日パーティしたことねぇの?ロウソクの火消して、ケーキ食べて、プレゼントもらうんだよ」 西名家ですることを伝えると、葵は俯きながら首を横に振った。葵の両親は、京介の目から見ても随分変わっている。三人揃ってパーティをする姿など、確かに全く想像が出来ない。 父親の馨に連れられて出掛ける姿は何度か見ているが、母親のエレナが葵を伴っていたのは引っ越しの挨拶に来た日だけだ。家族が並んだ姿も京介の記憶にはない。 休みのたびに全員で遊びに繰り出す西名家とは大きく違う。疑問に思って親に尋ねたことがあるが、それぞれの家庭の形があるのだと納得のいかない諭され方をされただけだった。 「そうだ、葵の誕生日っていつ?うちで祝ってやるよ」 帽子のつばに隠れて表情が見えづらいが、落ち込ませてしまったことはわかる。だから京介は未来の話題を口にした。 葵が西名家に遊びに来る機会は段々と増えてきたし、皆が葵のことを可愛がっている。誕生日を祝いたいと京介が提案しても、反対する者など誰もいないだろう。 「あおいにも、ある?」 「皆生まれた日ってちげーし、皆あるよ」 京介だって分からないことは多い。葵に対してうまく説明することも出来ないが、不安そうな葵を少しでも励ましたかった。 「穂高くんに聞いてみ?教えてくれるよ」 「……うん」 ずっと葵の傍にいる穂高なら知っているはずだ。きちんと質問できるか不安は残るが、素直に頷いた葵を褒めるように、京介は帽子越しの頭を撫でてやった。

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