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第1―5話
羽鳥がそれに気付いたのは、最初は些細な事だった。
校了を終えて、いつものように吉野のマンションに食事を作りに行った。
吉野はソファでうたた寝をしていた。
しかも何も掛けずに。
部屋は暖房が効いていて暖かいが、これでは風邪を引いてしまう。
寝室から毛布を持ってきてやろうとして羽鳥は止めた。
このまま起こして風呂に入れてしまおう。
その間に羽鳥が夕食を作れば、その後がスムーズだ。
「吉野、起きろ。
風邪を引く」
驚かさないようにそっと吉野の細い身体を揺する。
吉野は「…ん…」と小さく言って、眩しそうに左手で目元を覆った。
その時、妙な違和感を羽鳥は感じた。
違和感の正体は直ぐに分かった。
左手の中指に貼られた絆創膏。
それは羽鳥がこの家に用意してやっている物では無い。
たかが絆創膏と思われるかも知れないが、漫画を描く吉野が指に怪我をするということは大変な事だ。
それが利き手では無くても、漫画を描く作業のどんな妨げにならないとは限らない。
吉野はたまにカッターで左手を切るので、羽鳥は絆創膏を厳選している。
水は染みないが通気性が良く、絆創膏を貼らないでいるよりも、その絆創膏を貼った方が治りが良くなるという優れものだ。
何年か前に見つけて、それ以来その絆創膏以上に高機能な物が見つからないので、その絆創膏を買い続けているのだ。
吉野のマンションの救急箱と非常用の引き出しに常備してある、見慣れた絆創膏。
その絆創膏じゃない。
何処か外で怪我をしたのか?
だが、羽鳥は吉野に出掛ける時用に、救急用の小さなポーチを持たせている。
体力が無く人酔いしやすい吉野の為に、酔い止め・胃薬・頭痛薬・ティッシュ・ウエットティッシュ・絆創膏の普通サイズと中サイズを入れた物だ。
最低限これさえあれば、少しぐらい具合が悪くなっても何とかなる。
だからもし、外で左手の中指に怪我をしたとしても、吉野はポーチの中の絆創膏を使う筈なのだ。
羽鳥は吉野の左手をそっと手に取った。
やはり、違う。
そしてその絆創膏には黒いマジックで何かが…文字が書かれている。
日本語でも英語でも無い。
けれど、大抵の人なら分かるだろう。
『amour』アムール。
フランス語で、愛。
それから直ぐに吉野は何度か瞬きをすると、瞳を開けた。
「あ、トリ。来てたんだ。
今日のごはん何?」
吉野はガバッと起き上がると、わくわくした顔で羽鳥を見上げる。
小さな頃から変わらない、大きなタレ目の黒曜石の瞳。
羽鳥はその瞳に映る自分に問いかけるように言った。
「吉野、左手の傷どうした?」
吉野の瞳の中の羽鳥が、揺れる。
「えっと…擦りむいた」
「外でか?」
「う、うん」
「何で救急用のポーチの絆創膏を使わなかった?」
吉野がハッとして右手で左手を掴む。
羽鳥が吉野の両手の手首を掴み、ゆっくりソファに押し倒す。
「ト、トリ…?」
「何処で何をして怪我をした?」
「大したことじゃないから…」
「大したことじゃないなら、話せるだろう?」
すると、なぜか吉野がポッと赤くなった。
「あの…優と一緒に出掛けてた時、擦りむいて。
優が持ってた絆創膏借りた…」
「…柳瀬?」
吉野は嘘が付けない。
全部、顔に出る。
今、言ったことは真実だろう。
そう言えば、最近吉野は以前にも増して、柳瀬と一緒に外出する機会が増えた。
吉野の一人の外出もだ。
『amour』
あれは柳瀬の悪戯?
だが柳瀬の吉野に対する愛情が、ひと欠片も籠っていないと言いきれるか?
きっと吉野は意味を知らないし、調べようとも思わないだろう。
じゃあ何で赤くなるんだ?
柳瀬を意識してる?
ドクンと羽鳥の心臓が嫌な音を立てる。
羽鳥が吉野の両手首から手を離し、吉野を抱き起こすと立ち上がる。
「悪かなったな。しつこく訊いて。
今日は寒いしお前の好きなミートグラタンにしよう。
勿論、ポテト入りだ」
「やった!」
吉野がニコニコ笑って羽鳥の腰にしがみつく。
羽鳥はポンポンと軽く吉野の頭を叩くと「料理してる間、風呂入ってこい」と言う。
吉野は「らじゃー!」と答えて、クローゼットのある寝室に駆けて行った。
結局その日はそれで終わった。
吉野は風呂上がりに付けていた絆創膏を剥がして、ゴミ箱に捨てた。
何の未練も無さげに。
そして「トリ、うちの絆創膏ってどこだっけ?」と無邪気に訊いてきた。
羽鳥は「自分ちの救急箱の場所くらい覚えろ」と文句を言いつつ嬉しかった。
吉野は『amour』と書かれた絆創膏を特別意識していない。
やはり柳瀬の悪戯だったんだ。
羽鳥が見た吉野の左手の中指の傷は、吉野の言う通り小さな擦り傷だった。
羽鳥は絆創膏で傷をクルリと巻き付けてやると、絆創膏の上からキスをした。
それから数日後、21時過ぎ。
羽鳥は六本木から丸川書店に戻るところだった。
スマホでニュースを読みながら、地下鉄に揺られていると、「チアキちゃんにはこっちがいいと思うな!」という聞いたことのある声が羽鳥の耳に届いた。
周りの迷惑になるような大声では無い。
『チアキ』という単語と、聞き覚えのある声で羽鳥も気付いたのだろう。
羽鳥は声のした方に目をやる。
同じ車両の羽鳥とは真逆の位置に、三人の人間が固まって楽しそうに何かを見ている。
羽鳥は三人に気付かれないように、三人に近付く。
三人の顔が確認出来る位置まで来た時、羽鳥はあっと声を上げそうになった。
吉野と柳瀬がいる。
それはまだ理解出来る。
だがそこになぜか木佐がいるのだ。
吉野は人見知りだし、何より『吉川千春』が『吉野千秋』という男性だと知られるのを嫌がっている。
だからエメラルド編集部に来ることすら嫌がるし、エメラルド編集部で吉野の正体を知っているのは編集長の高野と担当の羽鳥、それから行きがかり上、丸川のパーティーで挨拶を交わした小野寺だけだ。
いつの間に木佐と知り合いになったんだ…?
羽鳥は拳をぐっと握る。
木佐と知り合いになったっていい。
けれどなぜそれを俺に話してくれなかった…?
木佐が「千秋ちゃんはどれにするか決めた?」と言ってデジカメを吉野に見せる。
吉野は頬を赤くして「どうしようかなあ」と迷っている。
柳瀬が「今日やったのも良かったよな。千秋のイメージに合ってる」と言って、木佐が「柳瀬くん、千秋ちゃんのイメージに合っててもしょーがないじゃん!相手に合ってなきゃ!」と言い、柳瀬も「それもそうか」と言って三人で笑い合う。
吉野は昨日、今日、木佐と知り合ったんじゃない。
この短い会話にも、三人を包む雰囲気にも、それは真冬の空気のようにクッキリと現れている。
羽鳥はただ棒立ちになっていたが、それに気付いた。
吉野の左手の人差し指の絆創膏に。
羽鳥は丸川書店に戻り仕事を終えると、真っ直ぐ吉野のマンションに帰宅した。
もう午前1時だ。
案の定、吉野が起きている気配はしない。
羽鳥は真っ直ぐ寝室に向かう。
寝室は真っ暗だが、羽鳥にとって問題はない。
難なくベッドサイドのライトを付ける。
吉野はぐっすり眠っている。
吉野の左手をそっと掴む。
絆創膏は羽鳥が用意してやった物だ。
そこには黒いマジックで文字が書かれている。
『Mimi』ミミ。
フランス語で、かわいくて堪らない。
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