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第1―6話
羽鳥はその夜、吉野の左手の絆創膏を確認すると、自分のマンションに帰宅した。
吉野に訊くまでも無いと思ったからだ。
吉野は『amour』と書かれていた絆創膏をしていた時と同様、怪我の理由を正直に話してくれるだろう。
だが羽鳥は今日『Mimi』と書かれていた絆創膏を見て、ある事に気が付いた。
吉野は怪我をした理由を話しても、落書きについては一言も話さなかった。
それは吉野にとってはわざわざ話すことでもない、些細なことなのかもしれない。
けれど絆創膏を貼ってやってる柳瀬には意味のあることなのだ。
自分は吉野に関しては、心が狭いと、羽鳥は自覚している。
誰かの恋心が詰まった絆創膏を吉野が貼っているなんて、絶対に嫌だ。
それを吉野が気にしていなくても。
風呂上りに何の躊躇いも無く、ゴミ箱に捨てていても。
羽鳥は翌日、木佐を昼飯に誘った。
木佐は「羽鳥に誘われるなんて珍しー!雪でも降るんじゃないの?」と笑っていたが、羽鳥は木佐の緊張を感じた。
木佐は丸川書店から歩いて5分ちょっとのイートイン出来るパン屋に行きたいと言った。
男でもガッツリ食べられるパンからデザート系のパンまで充実していて、スープもコーヒーも美味いらしい。
店は男女の客で満員だったが、普通の会社の昼休憩の時間からズラして来た為、何とか席も確保出来た。
木佐が、カツサンドとアップルパイとミネストローネとアイスコーヒーを頼んだので、羽鳥も同じ物にした。
木佐は「やっぱここのカツサンドはサイコー!」と言いながら美味しそうに頬張っている。
その姿が吉野に重なる。
羽鳥も「美味いな」と言ってカツサンドを食べたが、美味いとも不味いとも感じなかった。
木佐はカツサンドとスープを食べ終わり、アイスコーヒーを一口飲むと言った。
「話があんだろ?何?」
「木佐…」
「じゃなきゃ羽鳥が俺を、わざわざ昼飯になんて誘わないだろーし」
木佐はアップルパイに齧り付くとニヤッと笑う。
「昨夜の9時頃、地下鉄に乗ってたよな?
吉野と柳瀬と一緒に」
「うわー!偶然って怖いね!」
全然怖く無さそうに、木佐が笑って答える。
「随分、親しそうに見えたが、何処かの帰りか?
何処に行ってたんだ?」
「ヒ・ミ・ツ」
木佐はとても三十路には見えない美少年のような顔でウィンクする。
「木佐!」
思わず羽鳥が声を荒らげると、木佐は微笑んだ。
「羽鳥ってさあ、好きな人限定でサプライズするの好きだろ?」
『好きな人限定』というのが少し引っかかるが、事実なので羽鳥は「ああ」と頷いた。
「じゃあ羽鳥の好きな人が、いつもサプライズをしてくれる羽鳥の為に、サプライズしてくれようとしてたら、どうする?」
「え…」
「お前、俺に隠し事してんだろーって問い詰める?
それでサプライズを台無しにしちゃう?
俺は羽鳥がそんなヤツだとは思わないけど」
「それはそうだが…」
「だが?まだ何かあるの?」
「吉野は俺が知ってる限り、左手に二回怪我をしていた。
その絆創膏に文字が書かれていた。
フランス語で『amour』と『Mimi』だ。
木佐も意味は分かるだろう」
木佐はキョトンとしたかと思うと、次の瞬間笑い出した。
「あーそれね!
単なる悪戯っていうか、京極さんがおまじないってふざけて…」
「京極?誰だそいつは?
落書きしたのは柳瀬じゃないのか?」
その時、初めて木佐に動揺が走った。
「えーと…悪い、今の忘れて。
落書きは特に意味も無いし、柳瀬くんが書いたんじゃない。
それだけ!」
「木佐っ!」
怒りの表情を浮かべる羽鳥に、木佐がやさしく言う。
「吉野さんが不器用なのは羽鳥が一番知ってるだろ?
その吉野さんが怪我までして頑張ってんだよ。
お前はさあ、知らん顔して吉野さんのサプライズを待ってりゃいいの!」
そう言うと木佐はパパッと残りのアップルパイを食べ終えると、「お先に」と羽鳥を店に残し去って行った。
羽鳥は午後の仕事を通常通り進めながらも、木佐の話が頭を離れなかった。
木佐の言っていることは正しい。
けれど正しいことだけで全てが済むなら、人は悩んだり、心に傷を負ったりしないだろう。
何のサプライズかは分からないが、吉野が自分の為にサプライズを計画してくれているのは分かった。
だけど羽鳥にしたら「今、こういうメンバーでサプライズを計画してるからトリは楽しみにしてて!」と言われたい。
吉野が自分の知らない内に、木佐と親しくなり『京極』という見知らぬ誰かとも親しく何かをしている。
そしてその『京極』は悪戯だ、おまじないだと称して吉野の指に触れ『amour』だの『Mimi』などと書いている。
それに木佐は『京極』のことをうっかり口を滑らせて慌てて去って行ったが、残りのメンバーは誰なんだ?
羽鳥のキーボードを叩いていた手が止まる。
吉野…
サプライズなんていらない。
俺の為に怪我なんかして欲しくない。
吉野は俺の腕の中で笑ってくれているだけでいいんだ…
羽鳥は席を立つと廊下に出る。
羽鳥はスマホを取り出すと、素早くタップする。
「俺だ」
『分かってるよ。何だよ』
「話がある」
『俺は無いね』
「じゃあ吉野に直接訊く」
『……何を?』
「お前らが吉野を引き込んで、俺に隠れてやってることと、京極ってやつのことだよ」
羽鳥には分かっている。
こういう言い方をすれば柳瀬は断らない。
自分で自分を卑怯者だと思う。
だけど吉野の為なら、世界中から卑怯者と罵られても構わない。
『分かった。
だけど今日は仕事があって無理だ』
「いつならいいんだ」
羽鳥は電話に集中していて気づかなかった。
小野寺がエメラルド編集部の出入口にいることを。
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