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第1―12話
バスローブから私服に着替えた京極と高野は、ソファに対面して座っている。
「初めまして。
丸川書店エメラルド編集部で編集長をしております高野政宗と申します」
高野が名刺を京極に差し出す。
京極も名刺を高野に渡すが、氏名とスマホの番号しか印字されていない。
京極が微笑む。
「高野さんのことは井坂からよくお話を伺っています。
とても優秀な編集長さんだと。
それで今日はどういったご用件で?」
高野はため息を吐くのを何とか我慢する。
「その井坂さんに頼まれたんです。
京極さんの教室の様子を見てきて欲しいって。
今夜、京極さんは吉野さんの家で教室を開くからと、井坂さんに弁当を頼みましたよね?
それで吉野さんのお宅に伺ったんです」
京極がクスクス笑う。
「井坂のやつ、とうとう痺れを切らしたな。
実は井坂には教室を見せていないんです。
あいつのことだから、何を企むか分かったものじゃありませんから」
「教室は上手くいってるんですね?」
「勿論です」
「でもなぜボランティアでなさってるんですか?
材料費以外は受け取らないと井坂さんが仰ってました」
京極は一瞬驚いた顔をすると、にこやかに笑った。
「井坂にも繊細なところがあるんだな…」
「え?」
「すみません。
あなたが井坂からそれしか聞いていないなら、もう話すことはありません」
京極が立ち上がる。
高野が京極を見上げる。
「最後にこれだけ聞かせて下さい。
私の個人的な質問ですが。
なぜこのメンバーなんですか?」
京極は悪戯っ子のように笑うと、「ノーコメント」と一言だけ言い、ダイニングテーブルに向かって行った。
寝室に入ると羽鳥はそっと吉野をベッドの上に座らせた。
そしてクローゼットに向かうと、パジャマと下着とカーディガンを持って戻って来た。
「吉野、これに着替えろ。
バスローブのままじゃ風邪を引く」
「うん」
吉野は素直にバスローブを脱ぐと、パジャマに着替えていく。
気替え終わった吉野をやさしく羽鳥が抱きしめる。
「トリ…みんながいる…」
「何もしない。
ただ質問に答えてくれるか?」
「う、うん。いいけど…」
「京極さんがオイルマッサージをしてやるって言い出したのか?」
「うん」
「柳瀬も一緒に?」
「優は京極さんの手伝いをしてくれるって言ってくれて」
羽鳥がため息をつく。
「柳瀬には裸を見せないって約束したよな?」
「あ、あれは二人きりで出掛けないって…」
「いや、俺は裸を見せるのも駄目だと言った」
「でも、ちゃんとエステ用のパンツ履いてたし…」
「それで京極さんと柳瀬に素肌を触らせたのか?」
「そ、それは、オイルマッサージだったから」
「千秋…」
羽鳥が吉野を抱く腕に力を込める。
「頼むから、俺以外の男に素肌を触らせるな。
頼むから…」
羽鳥の声が震えていて、吉野は胸が痛くなる。
「トリ、ごめん」
吉野も羽鳥に抱きつく。
「もうしないから。絶対に」
「…本当に?」
吉野がそっと羽鳥の唇に唇を重ねる。
「千秋…?」
「や、約束の…キ、キスつーか…」
吉野が真っ赤になって横を向く。
羽鳥はぎゅっと吉野を抱きしめると、「ありがとう」と囁いた。
柳瀬の言う通り、羽鳥と吉野が15分程して寝室から出てくると、羽鳥は嬉しそうな様子だった。
だが、羽鳥の手には寝室に入って行った時には持っていなかった紙袋が握られていて、木佐がひょいと中身を覗くと、それは京極が吉野の為に用意していたベビーピンクのバスローブで、結局羽鳥はその紙袋を持って帰って行った。
木佐は羽鳥があのバスローブをどうするのか考えて、途中で考えるのをやめた。
どうせロクなことをしないに決まっているからだ。
羽鳥、こえー…
そして羽鳥と一緒に帰って行った高野の疲れた顔。
「高野さんは結局何しに来たんでしょうか?」
高野は、京極と10分程話しただけだ。
「それを言ったらさあ、羽鳥だって何しに来たんだ?」
昨夜だってここに押し掛けて、やりたい放題やったくせに!
うーん、と考え込む木佐と小野寺に、京極と柳瀬がクスリと笑った。
京極が
「お喋りはそのくらいにして、作業を始めましょうか」
と言って、木佐と小野寺は慌ててテーブルを片付けた。
羽鳥は自分のマンションに帰ると、ベビーピンクのバスローブの入った紙袋を床に放り投げた。
忌々しいったらない。
京極はどうにかして吉野が筋肉痛で動けないと知って、オイルマッサージをやることを思い付いた。
事前に吉野に似合うようなバスローブまで購入して。
羽鳥は風邪を引くからと、吉野に気替えさせたが、暖房の効いた吉野のマンションなら、あの冬用のフカフカのバスローブでいても風邪など引かなかっただろう。
バスローブ姿で吉野と並んだ京極の姿が目に浮かぶ。
それにしても…。
何で高野さんまで吉野のマンションに来たんだろう。
羽鳥は昨夜吉野に無理をさせ過ぎた代わりに、今夜は吉野の食べたいものでも作って、家事をやってやり、最近入浴剤に凝っている吉野の為に購入しておいた入浴剤で風呂に入らせ、京極ではないがそれこそマッサージをしてやるつもりだったのだ。
そしてエメラルド編集部を出る時、ふいに高野に声を掛けられた。
「今夜は吉野さんの自宅で京極さんが教室を開くらしい。
それで京極さんと話しがしたいから、時間があれば付き合ってくんねーか?」
羽鳥は驚いた。
なぜ高野が京極を知っているのか?
なぜ今夜吉野の家で教室が開かれるのを知っているのか?
だが高野の態度を見れば、嫌々行くのが目に見えている。
それに不機嫌を通り越して無表情になっている。
羽鳥は最初から吉野の家に行くつもりだったので快諾して、高野には何も訊かず、二人で吉野のマンションに向かったのだった。
疑問だらけの一日だったが、羽鳥はシャワーも終え、発泡酒を飲むと疲れが引いていくのを感じた。
寝室で吉野と交わした約束。
滅多にしてくれない吉野からのキス。
嫌なことが海辺の砂が引くように消え去っていく。
そして午前0を過ぎ、羽鳥がもう寝ようとした頃、スマホが鳴った。
羽鳥は素早く通話をタップする。
「はい」
『遅くに悪いな~』
相手は井坂だ。
「いえ、何か?」
『あのさあ、遼一が吉野さんにプレゼントしたバスローブ、吉野さんに返してやってくんねーか?』
羽鳥の胸がドキッと鳴る。
あのバスローブは紙袋に入れて、床に放り投げたままだ。
『遼一は時間が無い中、吉野さんの為に必死で選んだんだよ。
その気持ちを無駄にしないでやってくれよ』
「でも…」
『分かってる、分かってるって。
羽鳥はいい気はしないよな。
でもな遼一にとって吉野さんはミューズなんだよ。
やましい気持ちなんてこれっぽっちも持ってないから。
それに遼一はバレンタインデーの数日後には日本を離れる。
だからそれまでの思い出に、さ』
「ひとつ伺ってもよろしいですか?」
『なんだ?』
「京極さんのお仕事は何なんでしょうか?」
井坂があははと笑う。
『それはトップ・シークレットだな。
吉川千春が吉野千秋さん以上の秘密だよ。
じゃあバスローブの件、頼んだからな』
井坂の通話が切れる。
羽鳥は井坂の命令には逆らえない。
自分は平社員で、井坂は丸川書店の社長なのだから。
その井坂に気を遣わせる京極。
羽鳥はスマホのピクチャアルバムを開いた。
吉野がニコニコ笑っている。
井坂は京極が吉川千春のファンとは言わなかった。
『ミューズ』だと言った。
それ程、吉野に憧れ、神格化しているのだ。
やましい気持ちなんてこれっぽっちも持ってない?
けれど吉野が笑顔を向けるたび、京極の胸は高鳴るだろう。
あの絆創膏に書かれていた文字こそ、京極の本心なのだ。
『amour』愛してる
『Mimi』かわいくて堪らない。
吉野…吉野が俺を裏切らないと信じてる。
けれど俺には自信が無い。
これから先の未来、吉野が俺をずっと傍に置いてくれるのか。
付き合っている間には裏切りになっても、別れてしまえばそんな言葉は無意味だ。
こんなことになるなら、バレンタインデーはいつものように、俺がチョコレートを作ってやると言えば良かった…。
ピクチャアルバムの無数の吉野の笑顔から吉野の声が聞こえる。
『トリ!』
羽鳥は肩を震わせ、宝物のようにスマホを胸に抱いた。
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