結局、羽鳥はバスローブをクリーニングに出して、吉野に宅配便で送った。 あのバスローブを目の前にする吉野を見たく無かったからだ。 俺は京極から習ったというバレンタインデーのプレゼントを、笑って吉野から受け取れるだろうか？ バレンタインデーなんて来なければいい… 羽鳥は京極を忘れたくて、仕事に没頭するのだった。 「羽鳥はあの日、千秋ちゃんと二人きりになった後、機嫌直ったよね？ それなのにさあ、なんか暗くない？ 怖いぐらいに仕事漬けになっちゃって」 『あの日』とは勿論、吉野の家に集まった日のことだ。 木佐と小野寺は昼食に丸川書店から少し離れたパスタ専門店に来ている。 「そうなんですよねー。 仕事は順調そうなのに機嫌も良くないし。 それに高野さんも変じゃありませんか？ 仕事は別にしても覇気が無いっていうか…」 「そうそう！ 律っちゃんにも無駄に絡まないしさ！」 「それはありがたいんですけど、また体調が悪いとか？」 「そう？身体には問題無さそうだけど」 うーん、と二人考えていると、ふいに木佐が言った。 「京極さんと千秋ちゃんの出逢いを羽鳥に話せれば、やりやすいんだけどなあ」 「でも京極さんと吉野さんの最初の出逢いには井坂さんも絡んでて秘密にするように言われてますし、京極さんのことだって井坂さんに頼まれちゃいましたし。 俺達だってバレンタインデーに向けて、京極さんに先生になって貰って超助かってますし。 今更言っても、余計羽鳥さんの怒りを買うだけな気がしますけど…」 「それもそうなんだよなあ。 それに京極さんが、夢みたいだって言ってる思いをぶち壊すっていうのも気が進まないしなあ…」 「お、俺は絶対嫌ですよ！」 結局、二人は顔を見合わせため息をつくのだった。 「最近『エンジェル』が変なんだよな」 喫煙室で高野と二人きりなのを確認すると、横澤が困ったように言った。 「…そうか」 高野は気の無い返事だ。 高野は高野で精神的に疲れていた。 まず、カフェで吉野と美貌の男が親しげにしていたことを、羽鳥に話すべきか悩んでいたら、今度は桐島からの相談だ。 桐島の相談は上手くいったが、その前に横澤からも『エンジェル』の相談を受けている。 羽鳥のこと以外、一段落したと思っていたら、今度は井坂からの呼び出しだ。 井坂は社長室で１枚の男の写真を高野に見せた。 高野はあっと声が出そうになった。 その写真の男こそ、吉野とカフェで親しく話していた男だったからだ。 「こいつは京極遼一。 俺の親戚で普段は海外に住んでいる。 今回仕事の関係で帰国してる。 そこでだ」 井坂がずいっと身を乗り出す。 「遼一は今、ボランティアで何かの教室をやっている。 貰うのは材料費だけ。 遼一は材料費もいらないと言ったんだが、生徒の方が納得しなくてさ」 井坂は一旦言葉を切るとニヤニヤ笑い出した。 「その生徒っつーのが、吉川千春先生とアシの柳瀬くんと木佐と小野寺なんだよ！」 「はあ！？」 驚き目を見張る高野に、満足そうに井坂が続ける。 「遼一は海外でビジネスをしていて大成功してるから、日本には殆ど帰ってこない。 海外でも日本人を売りにしている訳じゃないから、日本では知名度も無い。 まあそれが遼一の戦略なんだけどな。 その遼一の趣味のひとつが日本の漫画なんだよ」 「漫画…ですか」 「そっ。あいつ子供の頃から漫画オタクでさ。 本拠地を海外に移した後も、俺が漫画やアニメを送ってやってたんだけどさあ」 ここで突然、井坂が笑い出した。 「ちょっと悪戯してやろーと思って、普段は少年漫画しか送ってなかった中に、少女漫画を混ぜたワケ。 そしたら遼一のやつ、少女漫画に夢中になっちゃってさあ」 「まさか…吉川先生の漫画に…？」 「そうなんだ。 それから遼一は吉川先生のマニア。 漫画は勿論、画集やアニメ、吉川千春と名のつく物は全てコレクションしてる。 だけどな単なるマニアじゃない。 遼一の仕事にインスピレーションを与えてくれるミューズだと言ってはばからないんだな、これが」 「す、凄いですね…」 思わず後ずさる高野に、井坂がまたずいっと近づく。 「そんな遼一が吉川先生と運命的な出逢いをした…。 そこで遼一は吉川先生の為に、教室という名のボランティアをすることにしたんだ…」 ウットリと語る井坂に、朝比奈がゴホンと咳払いをする。 「あっ！何の教室かは分かんねーんだけどな。 遼一のヤロー、俺を警戒してやがるんだよ！！」 「……はあ」 「そこで高野にやって貰いたいことがある」 それがつまり先日の吉野のお宅訪問だった訳だ。 だが京極からは何も聞けなかったに等しいし、京極が何の教室をやっているのかすら教えて貰えなかった。 というか、教室が始まる前に、木佐と小野寺と柳瀬に追い出されたようなものだ。 京極の「高野さんはもうお帰りになるそうですよ」の一言で。 井坂に報告をすれば「それだけかよ…」とため息を吐かれる始末だ。 「…って、おい！ 政宗、聞いてんのかよ！」 横澤に肩を揺すぶられ、高野は現実に戻る。 「あー…何だっけ？」 「だから『エンジェル』が」 「あ、高野さん。 やっぱりここにいた」 美濃がひょいと喫煙室に顔を出す。 「井坂さんが直ぐに社長室に来るようにとのことです」 高野は「失礼しました」と言って社長室を退出する。 エメラルド編集部に戻ると羽鳥を呼ぶ。 羽鳥が高野のデスクの前に立つ。 「羽鳥、吉野さんの進捗具合はどうだ？」 羽鳥が嬉しそうに微笑む。 「それがもうプロットが上がってるんです。 吉野の普段のペースからしたら、信じられない早さです。 今、ネームに入っています」 「そうか。 それじゃあ大丈夫だな。 吉野さんのスケジュールが丸々１日空けられるのはいつだ？」 「丸々１日ですか？ 何かの打ち合わせですか？」 「理由は後で説明する。 スケジュールが空く日にちはいつだ？」 「分かりました。 では俺のスケジュールと照らし合わせてみます」 高野は俯くとポツリと言った。 「お前のスケジュールは関係ない」 「…え？でも担当が不在ではまずくありませんか？ それに吉野は特に俺がいないと…」 「だからお前は関係ないんだよ！ いいから吉野さんだけが空いてる日にちをさっさと教えろ！」 高野が鋭く告げる。 その瞬間、エメラルド編集部が静まり返った。