翌日、木佐は雪名の家から出勤し、羽鳥が出勤してくるのを待っていた。 羽鳥はいつもは始業時間には出勤しているのに、今日はフレックスで昼過ぎに出勤してくるらしい。 編集者としては珍しくは無いが、羽鳥にしては珍しい。 木佐はやきもきしながら羽鳥が出勤してくるのを今か今かと待っていた。 木佐は昼休みに小野寺を誘い、昨夜雪名と話したことを話した。 小野寺も雪名の意見に賛成だった。 それに小野寺も、今回のことで、高野まで弱っていると付け加えた。 今日は京極の教室があるので、柳瀬がいるとはいえ、京極と吉野をこれ以上接近させないように、小野寺には教室に行ってもらい、木佐は終業後に羽鳥と話すことにした。 羽鳥は午後１時丁度に出勤して来た。 エメラルド編集部だけでなく、フロア全体が静まり返る。 いつものカッチリと着こなしたスーツ姿では無く、カジュアルな服装も注目の的だが、問題は顔だ。 左目の目元に大きな青タンがあり、口元にも痣があり、唇の端が切れている。 よく見るとジャケットから手首に巻かれた包帯が見える。 だが羽鳥は至って普通にエメ編の皆に「おはようございます」と挨拶すると、自席に着く。 高野も普通に「はよー」と言っているし、美濃はいつもの謎めいた微笑みを浮かべて羽鳥に「おはよう」と言うが、木佐と小野寺は言葉が出ない。 羽鳥は上品でカジュアルな服装に身を包んでいる。 怪我もしている。 だが、いつものスーツ姿の羽鳥で怪我もしてなくても、羽鳥はズタボロに見えただろう。 木佐は羽鳥とは他のエメ編の編集者より長い付き合いになるが、こんな羽鳥を見たのは入社以来初めてのことだった。 それから木佐と小野寺は、羽鳥に話し掛ける隙が無いかをうかがっていた。 しかし羽鳥は仕事に没頭している。 だが午後４時過ぎに「ちょっと休憩に出て来ます」と羽鳥が立ち上がった。 木佐は速攻で作っていた書類に保護をかけると羽鳥を追った。 羽鳥は休憩室の窓際で缶コーヒーを飲んでいる。 木佐も急いで缶コーヒーを買うと、羽鳥の前に立った。 「どうした？」 羽鳥が木佐を見上げる。 木佐がさっと羽鳥の前の席に座る。 「おっ、俺も休憩！ それでさ、羽鳥、今夜空いてる？ 話したいことがあって」 「悪いな。今日は先約がある」 羽鳥は生気の無い顔で、窓の外を見ながら言う。 「あの…１時間でも…いや30分でもいいんだ！ 何とかならない？」 「それは京極遼一のことか？」 木佐が驚いて目を見開く。 「京極遼一は井坂さんの親戚で、海外でビジネスを成功させていて、日本には殆ど帰国しない。 そして吉川千春の熱狂的ファン、だろ？ 昨夜、高野さんから電話で聞いた。 これ以上話すことがあるのか？」 羽鳥は何の感情も籠っていないかのように、何の抑揚も無い声で言う。 木佐は大きな瞳で羽鳥を見据える。 「あるよ」 「何だ？」 羽鳥がチラリと木佐に目をやる。 「千秋ちゃんと京極さんとの出逢い。 これは井坂さんに口止めされてるけど、俺はお前に話す。 お前にとっちゃ大したことじゃないかもしれない。 だけど、千秋ちゃんと京極さんの関係を、どんな些細なことでも知ることは、今の羽鳥には必要だと思う」 「吉野と京極さんの出逢いか…」 羽鳥が小さく笑う。 「もう、そんなこと、どうでもいいんだよ」 羽鳥は呟くように言うと、木佐を残し、席を立って行った。 羽鳥がマンションのエントランスで部屋番号を押す。 直ぐに「はいよ」と返事があって、エントランスの扉が開く。 羽鳥がエレベーターを下り、玄関のインターフォンを押す。 何の返事も無く、玄関が開く。 男が出て来てニヤッと笑う。 「良く似合ってる。 男前は何をしても男前だな」 「昨夜は本当にすみませんでした。 ありがとうございました」 羽鳥が頭を下げると、バタバタと玄関に足音が響いた。 「桐嶋さんも羽鳥も玄関先で何やってんだ！ 早く部屋に上がれ！ メシが冷める！」 「は～い」 明らかにふざけた返事の桐嶋を、横澤がギロッと睨む。 羽鳥は革靴を脱ぐと二人のやり取りに微笑んだ、つもりでいた。 だが、頬を伝ったのは涙だった。 「はっ羽鳥！？」 慌てる横澤に、桐嶋が静かに言う。 「大馬鹿野郎だな、お前」 そうして桐嶋は羽鳥の肩をやさしく抱いた。